タスマニアの解剖

未読山の中から、タスマニアの解剖についての立法を読む。文献は、MacDonald, Helen, “A Scandalous Act: Regulating Anatomy in a British Settler Colony, Tasmania 1869”, Social History of Medicine, 20(2007), 39-56.

1869年に、当時イギリスの植民地であったタスマニアにおいて、解剖用の死体についての立法が定められた。(このあたりの本国と植民地の立法の違いについてのテクニカルなことが、私には判らないので、この表現は正しくないのかもしれない。)イングランドの1832年の解剖法が、エディバラのバークとヘアの二人組みによる、死体泥棒と墓荒らし、ひいては解剖用の死体を調達するために浮浪者を連続して殺害した事件のスキャンダルに対する対策という側面を持っているように、タスマニアの解剖法も、大きなスキャンダルに触発されたものであった。

そのスキャンダルは1869年にタスマニアの病院で死んだ「キング・ビリー」と呼ばれたタスマニアのアボリジニ、ウィリアム・ラネイの死体をめぐるものであった。当時、タスマニアのアボリジニは速やかな絶滅に向かっているとされ、最後の生きているアボリジニであったキング・ビリーの死体は、ロンドンの博物館と、地元の王立協会が入手をもくろんでいた。そのうち、ロンドンの王立外科協会のハンター博物館と協力していたタスマニアのウィリアム・クラウザーは、再三にわたって死体の入手を病院に申請したが、ラネイ死体を最後のアボリジニとして標本にして地元にとどめておきたい王立協会の側が反対していた。業を煮やしたクラウザーは、病院の医師が外出した隙を狙って病院に忍び込み、ラネイの頭蓋骨を取り出して、代わりに病院にあった別の死体の頭蓋骨を入れておくという凶行を行う。これが発覚して、クラウザーは病院の顧問医師の地位を追われるが、一方で病院の常勤の医師のジョージ・ストーケルも、クラウザーたちがラネイの死体を掘り出して完全な骨格を入手するのを妨げるために、自らラネイの死体を掘り出して手足を切断する。

このアボリジニの死体の標本をめぐる争いは、医師による死体の入手を規制する法律の議論へと進み、クラウザーはタスマニアの議会の議員という地位を利用して、この立法の過程で大きな発言権を持つことになる。 とうぜん病院側はこれに反発し、激しい議論の中で立法されるが、そこにはクラウザーが理解したところの1832年の解剖法の解釈が大きく反映されていた。