アヴィセンナ『医学の歌』

アヴィセンナ『医学の歌』の日本語訳を買ってしまった。文献は、アヴィセンナ『医学の歌』志田信男訳(草風館、1998)。

アヴィセンナ(イブン・スィーナー)は10世紀から11世紀に活躍したペルシアの学者で、ヨーロッパでは『医学典範』というギリシア医学などを集大成した著作が中世からルネッサンスにかけて影響力を持ったことで知られている。そのアヴィセンナの医学を詩の形式でごく短くまとめた作品があって、これがこの翻訳の『医学の歌』である。訳者は古典学者で、アラビア語はできないようだけれども、異本だとか注釈書だとか英訳・仏訳の参照だとか、古典を訳すときに何が必要かという心得は十分に持っていて、参考文献もたくさん挙げられている。

情熱を込められた、大変な訳業を酷評するようで申し訳ないけれども、優れた訳を読んだという気が全然しない。その理由は色々あるけれども、一番大きなものは、<テクニカル・グラスプ>を感じさせないということである。医学史の古典の翻訳の命と言ってもいい、病気の名前、臓器の名前、薬用植物の名前などについて、現代の概念を含む訳語が無造作にあてはめられていて、<この疾病概念を本当に当時の医学者たちが持っていたのか><この臓器の存在と機能は知られていたか><この語があらわす植物のうち、どの種類が薬用に使われていたのか?>ということに、真剣に注意を払っているという印象をまったくもてない。10世紀のペルシアで南米原産の<トウガラシ>を治療に使うことができたと、この訳者は本気で主張しているのだろうか?