ヴィクトリア期の医者の文学論

昨日ノルダウを読んでいて、ふと気になったテキストがあったので、19世紀の半ばごろのイギリスの医者による文学論の箇所を読み直す。文献は Brodie, Benjamin, Mind and Matter: or Psychological Inquiries (New York: William Wood & Co., 1873).

ベンジャミン・ブロディー(1783-1862) は当代随一の成功した生理学者・外科医で、歴代の王・女王の侍医となり准男爵爵位を授けられた。この書物の主題は、医学的な人間観は、不滅の霊魂の理論とどのように共存できるのかという、少なくとも中世以降の西洋の医学が避けることができなかった中心問題を正面から扱っている。医学は唯物論に至るのか、そうでないのかという問題は、医学・生理学が体制の内側で道徳を支える学問なのか、反体制の不道徳を説く危険思想なのかという、医学の正当性そのものにかかわる問題であった。たぶん、生物の進化は利己心だけで説明できるのかどうかという問題をめぐる現代の論争が、この問題と少しだけ似た性格を持っている。そこはもちろん面白いし、当時の精神医学概念を説明したところも勿論面白いのだけれども、今回読んだところは、当代一流の医者が、同時代の文学を評論したところである。 

この本の初版が出たのが1854年で、イギリスではウオルター・スコットが国民的な作家だったし、ブロディー自身もスコットランドに縁があるので、ブロディーの文学的な英雄はスコットだった。そして、スコットの傑作は、意思の力を用いて書かれたものではないという。だからといって、夢遊病のように書かれた物でもない。もし夢のように次々と湧き上がる想像力をそのまま言葉にしたら、その観念の間には何の関連もなく、それこそ狂人の言葉になるだろう。(これをそのまま<やってみせた>のが、フロイトであり、自働書記であると考えられないだろうか?)しかし、スコットのような偉大な文学者においては、想像力に<注意>が加えられる。注意が加わって、ある観念に意識を集中できるようになると、観念の間の関係が見えてきて、そこにすぐれた文学が生まれる。そして、この想像された観念に注意を集中させることは、スコットのような小説だけでなく、政治、歴史、科学、詩作においても、すぐれた仕事に必要なことである。軍事においても、注意力のあるなしは、優れた将軍と凡庸なそれの違いを分けるとブロディーは書いている。優れた文学は、優れた政治家・科学者・歴史家・軍人を生み出すのと同じ精神能力が必要なのである。

一方で、この注意力を欠いた、規制されない想像力は、熱狂に酔いしれたような神秘主義者たちを生み出す。ジョアナ・サウスコット、モルモン教の創始者、ロンドンのゴードン暴動の指導者たちは、みな病的な想像力の持ち主であり、無教育なものたちがそれにしたがっているのである。昨日記事にしたノルダウが、当時の文学は不健康な近代社会が産んだ病んだ肉体に宿る病んだ精神の産物であるといい、それに時代が毒されているというときに、医学的な理論立ては違うが、ブロディーの言説とそんなに変わらない。それどころか、少なくとも17世紀の熱狂信仰批判まで遡ることができる、医学の定番言説である。

ブロディーがノルダウと大きく違うのは、そのオプティミズムである。このような病んだ精神の影響を受けることがあっても、時間をかければ真理は受け入れられ、社会は基本的に進歩するとブロディーは信じている。それ以外には、そんなに変わらないのかもしれない。