『中島敦 父から子への南洋だより』

必要があって、中島敦が南洋から家族に出した書簡集を読む。文献は、中島敦中島敦 父から子への南洋だより』川村湊編(東京:集英社、2002).

中島敦は1941年に喘息の転地療法のために南洋庁パラオに職を得て赴任する。当地で彼の喘息はむしろ悪化し、一年足らずで42年に帰国し、結局その年に没する。彼が南洋から日本に残した妻と幼い息子に宛てて書いた手紙を集めたものが同書である。手紙の写真版やパラオの写真なども添えられたヴィジュアル系の本になっている。中島が小学生の長男に書いた手紙の文章は、簡潔で無駄がなく美しいが、ここでは研究の話をする。

妻に宛てた手紙で、パラオに家族を呼ばない理由を説明した箇所があった。その理由は、中島が書くところによれば、子供が南洋の風土に同化して「土人」あるいはミクロネシアの「島民」のようになってしまうことへの不安であった。中島は現地で生まれた日本人の子供たちの風貌が島民に似ていることにショックを受ける。日本人のはずの子供たちが、ちぢれた髪に、どんぐりのような目に、厚い唇を持っていたことを、中島は行間に嫌悪感を漂わせて書いている。さらには「頭も島民に似ている」と記している。この「頭」というのは、知能のことであろう。中島は、自分の次男を南洋につれてきて「そうなったら、いやだな」と記し、これが家族を南洋に呼ぶことに慎重にならざるをえない理由であると妻に説明している。

中島の「説明」の背後には、私が知らない理由があるのかもしれない。また、この一事を持って、中島が差別主義者だとか帝国主義者だとかという一時流行したような議論をしたいわけではない。デュラスの『愛人』の記事でも記したが、「差異」の感覚と、その差が脆弱なものであるという感覚、そのどちらも「身体」と「風土」に宿っていたことの意味を、生理学の歴史を通じて考える論文を書いている。