公衆衛生の目標の範囲

必要があって、「公衆衛生」はどこまでその目標を広げるべきだろうかという論文を読む。Gostin, Lawrence O., Jo Ivey Boufford and Rose Marie Martinez, “The Future of the Public’s Health: Vision, Values and Strategies”, Health Affairs, 23(2004), 96-107.

「健康が単に病気ではない状態だけではない」というWHOの有名な健康の定義は、理念としては崇高で共感する部分もあるが、実際問題として、「精神的・社会的に完全な幸福な状態」を実現するのが医者の責任なのかという疑問は誰もが持つだろう。疫学の研究者は、所得や格差や社会資本などといったさまざまな社会・文化的な指標と健康指標が深い関連があることを示して、「医療」の範囲、あるいは少なくとも「公衆衛生」がカヴァーする範囲を拡大して考えるべきだという。そういう議論で出される「証拠」のかなりの部分には説得されるし、包括的で社会文化的な「医療」「健康」の概念は魅力的である。しかし、だからといって所得格差を減らすことが医者や公衆衛生の仕事なのだろうか?大学医学部では経済学のかなり高度な部分まで教えなければならないのだろうか?それができないとすると、医学は政治家や経済学者のプランを忠実に実行するとても狭く理解された「技術」になるべきなのだろうか?もちろん、私は答えを持っていないけれども。

有名な笑い話を一つ。しばらく前に、いくつかのイスラム教国から、WHOの健康の定義に、「スピリチュアルな状態」を付け加えるべきだという提案があった。健康は病気でないというだけでなく、精神的・社会的、そして「スピリチュアル」に完全な状態でなければならないというわけだ。この「スピリチュアル」という概念は、信仰の問題も含んでいて、政教一致のイスラム教国から出てきそうな発想である。その気になったら、信仰を持つ個人は、そうでない人間よりも健康だという証拠はいくらでも出せるだろう。それに対して、イギリスやオランダなどのヨーロッパ諸国は、宗教は、それを信じるかどうかも含めて個人に任せられるべきではないかという反対をした。日本の厚生省の役人もこの提案に反対したが、その理由は「宗教法人はわが省の管轄ではないから」というものだったそうだ。安っぽい真実味がありすぎて、ほぼ間違いなく作り話だと思うけど、この笑い話を聞いたときにはちょっと笑えた。