必要があって、文化人類学者のダグラスがウィルダヴスキーという政治学者と共著で書いたリスク論を読む。文献は、Douglas, Mary and Aaron Waldavsky, Risk and Culture: an Essay on the Selection of Technological and Environmental Dangers (Berkeley: University of California Press, 1983).
議論の素材はアメリカにおける科学技術に由来する環境汚染・人体への危険への関心の高まり。カーソンの『沈黙の春』以降に顕著になり、スリーマイル・アイランドの原発事故(1979)で一つの頂点に達した現象である。これを分析する手法としては、未開社会(と言ってはいけないのだろうな、今は)の「けがれ」や、タブーの侵犯という危険の概念に重ね合わせるというものである。それに加えて、「自然」とは何か、「理想の社会」とはどういうものかを定義する機能を果たしている「中央」と、その定義に挑戦する機能を持つ「境界」という概念を用いて、リスクをめぐる緊張がたかまる過程をダイナミックに理解する枠組みを提示している。「中央」と「境界」の双方について、建設的な鋭い批判を含む考察である。しばしば揶揄され、時折実在するヒステリックな環境ファンダメンタリストの仕事ではない。
未開社会の心性が、何かがタブーであり危険であると信じ込む一方で、他のより大きなリスクには平然としている「偏って間違った信じやすさ」であると決め付けて、自分たちのリスクへの対応は科学的であると安心している人は、さすがにいないと思うけれども、それなら現代の社会は未開社会と変わらないのか?あるいはむしろ、リスクに敏感になった20世紀後半以降の社会は未開社会に近づいているのか?というような問いは、意外に深い問いである。
最近のニュースではもう日常的になった、食品の賞味期限を偽装したのが発覚して、記者会見でフラッシュがたかれるなか、責任者が三人並んで頭を下げる光景は、我々が見ても異様だけれども、これを後世の歴史学者や人類学者が見たら、いったい何の儀礼であると考えるのだろうか。 三人並んで虚空に向かって頭を下げることと、食の安全が確保されることと、どういう因果関係があるのだろうか? これは未開社会に特徴的な迷信ではないかといわれたら、私たちはどう答えればいいのだろうか?