『ライラの冒険―黄金の羅針盤』


娘が読みかけて、嫌いだから読まないといった本で、なんかもったいないのと、かなり珍しいことなのでちょっと興味があって(笑)、フィリップ・プルマン『ライラの冒険―黄金の羅針盤』を読む。新潮文庫から上下で出ていて、いま公開されている映画のスチール写真がカヴァーにあしらわれている。以下はネタバレがあります。

『ハリー・ポター』の二番煎じの匂いがぷんぷんするようなファンタジー小説で、全体としては三部作の第一部にあたる。11歳の少女のライラは、おもてむきは孤児で、オクスフォードの古い格式ある学寮で育てられているやんちゃで冒険好きな女の子。イギリスから子供がさらわれて姿を消し、北極に連れて行かれて人体実験を行われていることを知ったライラは、「ジプシャン」と呼ばれる水上の漂流民たちとともに北極に向かって子供たちを救い出すというストーリー。その冒険の過程で、よろいをつけた白くま(映画のポスターで大きく使われている、あの白くまです 笑)だとか魔女だとかタタール人だとかと、戦ったり助けられたりするけど、もっと大事なのは、その過程で彼女は実の父親と母親がこの実験に深く関与していることを知るということだろう。

こう書くと、イギリスの伝統をハリウッド向けに食い物にした冒険活劇ファンタジーのようだし、そういう性格は多分にあると思うけど、この作品で一番面白い仕掛けは「ダイモン」という概念である。人間は自分の外に「ダイモン」というキャラクターを持っている。これはだいたい動物の姿をしていて、まるでその人間とは独立した意思を持っているかのように行動するが、しかしやはりその人間の一部である。ダイモンを連れていない人間などありえないし、ダイモンと切り離されるとその人間は遠からずして死ぬ。その人間が死ねばダイモンも消滅する。子供のうちであればダイモンは色々と姿を換えるけれども、大人になるとそのダイモンの姿は一定していて、その人間の人格を映し出す鏡のようになっている。(たとえば、ニコル・キッドマン演ずる主人公の母親役のダイモンは、美しく優美な金髪のサルである)。たぶん、神学や哲学の霊魂論の長い伝統なども参照して作られていて、それと同時にインターネット上で作り出されるアバターなんかへの思わせぶりも効かせてあって、これから「心理学化する現代社会の自己表象」とか「分裂する自己の可変性」とか、その手のカルスタ系の分析をたくさん目にするのだろうな。

これは全く余分なことだけれども、私の娘は12歳ですが、この作品を半分だけ読んで止めて、微塵の疑いもなく『ハリー・ポター』の方が断然良いと断言していました(笑)