イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

前日に続いて、イタロ・カルヴィーノの作品をもう一冊。米川良夫訳の『見えない都市』(河出文庫)これは『柔かい月』よりもはるかに分かりやすい仕方で傑作。翻訳はすごく良いけれども、原語に近い言葉でもう一度読みたくて、英訳を注文した。

マルコ=ポーロがフビライ汗に向かって、帝国の中の都市についての報告をするという設定で、ポーロが訪れたさまざまな都市(これは、実は訪れないで空想しているだけなのか、それとも思い出しているだけなのかといいったことは曖昧にされる知的な仕掛けが施されている)についての短い記述が次々と現れるという形式。カルヴィーノの天馬空を駆けるような奇想を存分に発揮するには、『柔かい月』のようなストーリーラインを持った語りよりも、このような「額縁小説」の形式が一番なのだろう。奔放な詩的空想力の産物である、50余りの珠玉のような空想都市を記述をただ楽しんで読めばいい。

気に入った話はたくさんあったけれども、これは医療の社会史のブログということで、それに一番近いと言える公衆衛生のテーマを持った話(笑)を抜書きします。

[アルミッラの街には] 壁というものがなく、天井がなければ床もございません。この都市をいかにも都会らしく見受けさせるようにするものは何一つないのでございます。例外は水道管だけで、それが、建物のあるところでは垂直に立ちのぼり、また床のあるはずのところでは四方にわかれてのびているという具合で、栓やらシャワーやら、あるいはサイフォン、遊水管とやらになって終わる水道管の、いわばジャングルでございます。その上、洗面台とか浴槽とか、そのほか何かしらの陶器の用具が点々と、まるで枯れ枝にぶらさがったまま落ちようともしない木の実のように、空に向かって白く輝いています。いかにもそれは、配管工が自分の仕事をし終えて、左官の来る前に引き上げてしまったというようでもございますし、あるいは、不滅を誇る彼らの仕事が、地震なり、あるいは白蟻の来週といった破局にも耐え抜いてきたそのあとだと言えそうでございます。

(中略)

いかなる時刻でありましょうとも、パイプの森をふり仰ぐとき、一人あるいは大勢と、若い女性の姿を見かけることが稀ではございません。いずれもほっそりとした体つきながら、背丈は高くございません。あるものは快げに湯舟のなかに手足をのばし、あるものはまた宙吊りのシャワーの下に体をかがめ、沐浴するもの、肢体を拭うもの、あるいは香を注ぎ、あるいは鏡にむかって長い髪を梳るものと、さまざまでございます。

(中略)

私のたどり着いた説明はこうでございます。アルミッラの水道管のなかを流れる水は、川の精、水の精らの支配するところとなり終わったのでございます。地底の水脈をさかのぼってゆくことに慣れている彼女らにとって、この新たな水の王国に入りこむこと、無数の水源から湧いて出ること、新たな眺望、新たな遊戯、新たな水の愉しみ方を見出すことは容易なことでございました。ことによれば、彼女らの侵入が人間を追い払ったのかもしれませんし、あるいは水を奪われて機嫌を損ねた水精たちへの感謝のしるしとして、人間の手によりアルミッラの都市が建立寄進されたものかもしれません。ともあれ、彼女らは今、この上もなく愉しげでございます。朝には、歌をうたっているのが聞こえます。