民主的バイオテクノロジー


必要があって、遺伝子操作などで人体の機能や形態をラジカルに操作することを肯定する transhumanist(ヒト超越論者、とでも訳すのだろうか?)のマニフェスト的な論文を読む。文献は、Hughes, James, “Democratic Transhumanism 2.0” 注などはついていないけれども、一万語以上のかなり実質がある論文である。以下のサイトで全文を読むことができる。
http://www.changesurfer.com/Acad/DemocraticTranshumanism.htm

生殖技術、臓器移植、クローンや遺伝子組み換え食品など、生命科学の応用をめぐる論争は、現在の(アメリカの)政治において、経済や文化と並んぶ一つの新しい「軸」になったという。ヒトの身体が持つ<自然的な>条件に、高度な科学技術を用いて介入して、その機能を高める技術を用いることが正しいかどうかという論争が大規模な形で起きていて、この論争は、伝統的な社会の対立軸であった、経済における保守派と進歩派の対立、文化における保守と進歩の対立に影響されながら、しかしその対立には完全に吸収されない形で展開している。この新しい軸の概要を記述しながら、「民主的なヒト超越論」(democratic transhumanism) を提唱する論文である。

マニフェスト的な論文だから、話は単純明快・図式的に作られている。ブッシュ政権が胎児や受精卵の利用に対して取った態度を念頭において、バイオ=ラダイトと筆者が呼ぶ、生命科学技術の応用を拒否し、科学研究を禁止しようとすら提唱する人々を一つの極におき、一方に生命技術の応用を謳歌して推進する人々を反対の極に置く。この筆者は、ヒトの生物学的な限界を超越するようなテクノロジーは善であるという立場に立っているから、この軸で言うと、筆者が言うところの「進歩的な」極に近い地点にいる。それに続いて、このスペクトラムと立体的に重なるようにして、経済と文化の軸における立ち位置を示す。筆者は、経済的には市場万能主義に反対で、あらたなヒト超越的な技術は、国家が保障して万人が利用可能できるようになってこそ、民主的な形で人間の幸福を向上させるという。文化的には、ゲイやフェミニストなどのマイノリティとの連帯を図るという意味で、これも進歩的な位置を占めるのだという。カリカチュアして言うと、1) 公的保険を使って、2)ゲイのカップルが 3) 人工子宮で子供を作ること、をよしとする態度に象徴された立ち位置を取るのである。 そして色々各論を書いた後、「万国のヒト超越主義論者よ、団結せよ!」と呼びかけて、論文を締めている。

短いスペースで、バイオテクノロジーをめぐる状況を鳥瞰して、わかりやすいアクションのプログラムを書こうというのだから、洗練とか、エレガントな論立てとか、そういうことを最初から目指していない。それを受け入れると、とても面白く読めた。バイオ=ラダイトに対する悪罵を並べるあたりは、趣味の悪さというかセンスのなさを感じたけれども、運動家や活動家がスタイリッシュである必要はない(笑)。なによりも、彼が同志とみなすハラウェイに較べて(ハラウェイがどう思っているかは知らないけれども)、すごく分かりやすい。私は門外漢だから、バイオエシックスの専門家たち(ちなみに、彼らも悪罵の対象になっている)の意見を聞いてみないと分からないけれども、この論文は、意外にお勧めだと思う。賛成するかどうかはまったく別の問題だけど。

図版はこの論文から。 民主的ヒト超越主義が成立するための政治的な「立ち位置」の図示。