A.I.


必要があって、映画『A.I.』を観る。スタンリー・キューブリックの構想に基づいて、キューブリックの死後、スピルバーグが監督して2001年に公開される。ハーリー・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウなどが出演。以下はネタバレがあります。

ストーリーの骨子は、驚くほど単純である。設定はサイボーグ技術が高度に発達した近未来。スウィントン夫妻の子供は植物人間状態に陥ってしまった。その子供の代理として「愛することができる」子供ロボットの第一号の試作品として製作されたアンドロイドであるデイヴィッドを夫妻は購入する。子供が植物状態から回復すると、母親はやがてデイヴィッドを捨てることになる。デイヴィッドは、失った彼女の愛を取り戻し、彼女に愛されるにふさわしい「本当の」人間の子供になる方法を探し求め、最後にはその願いを果たす。この単純なストーリーを、劇的な映像を駆使して、「人間とは何か」という大問題を論ずる映画に仕立てている。

その問題は「創造するものと創造されたものの関係」という、キリスト教の本質にかかわるものと、「人間を人間たらしめているのは何か」という、いわゆる生命倫理の問題にかかわるものに二分できる。そして、その両者がからみあってストーリーが展開していく。

実は、私は「生命倫理学」がこれほどまでに人々の注目を集めている理由がこれまでよく分からなかったのだけれども、この映画を観ると、生命倫理の議論に人々が-そして私たちが-何を期待しているかが分かったように思う。それは「叙事詩」ではないだろうか。唐突で申し訳ないけれども。

画像は副主人公の、ジュード・ロウ演じるアンドロイド「ジゴロ・ジョー」