オランダの解剖学とその文化





必要があって、17世紀オランダの解剖劇場を分析した論文を読む。文献は、Rupp, Jan C.C., “Matters of Life and Death: the Social and Cultural Conditions of the Rise of Anatomical Theatres, with Special Reference to Seventeenth Century Holland”, History of Science, 28(1900), 263-287.

オランダの諸都市に常設の解剖教室が設立されたのは、16世紀の末から17世紀の前半である。ライデンが1597年、デルフトが1614年、アムステルダムが1619年。これらの解剖教室は、イタリアのそれと同様に解剖劇場と呼ばれ、円形の階段教室の中央に解剖台を置き、その周りには入場券を買った一般市民が着席して解剖を見ることができるようになっていた。

この論文のポイントは、これらの解剖劇場が、医学の中の解剖学という「分科」をはるかに超えた広がりを持つ文化センターの一部であったことである。解剖劇場では動物の生体解剖も行われ、当時の「新科学」の担い手たち、たとえば顕微鏡の観察で有名なレーウェンフックとか、スワメルダムといった学者たちもこの場に参加していた。その解剖劇場には図書館も併置されただけでなく、サイやクジラの標本などの自然史コレクションや、古代のコインや装飾品などの美しいもの・珍しいものを集める美術・骨董コレクションも併置された。当然、博物学者や美術研究者たちもそこに集まった。解剖学とオランダ黄金時代の美術とが接近する空間が作られたのである。

解剖学と美術の接近の一つの媒体は、新科学の道具として用いられたカメラ・オプスクラなどの光学器械だった。フェルメールをはじめとする17世紀オランダの画家たちが盛んに使ったカメラ・オプクスラを使ったことは有名だし、18世紀初頭のイギリスの解剖アトラスの表紙画像が示すように、解剖学のイラストもカメラ・オプスクラを用いて描かれていた。さらに、解剖学は、人間と現世が移ろい行くものであることを示すシンボルとして当時の絵画における主題を提供していた。この解剖と美術のコラボレーションの頂点に、レンブラントの名作『テュルプ博士の解剖講義』があるのである。