コレラの治療法-輸液

昨日に引き続いて、未読山の中の頂いた論文を読む。文献は、内田正夫「隔離と消毒-明治のコレラ対策における予防と治療」原田勝正編『「国民」形成における統合と隔離』(東京:日本経済評論社、2002)、263-304.

明治期のコレラに対する政府と医学者たちの隔離・消毒政策をおさらいしたような論文で、よくまとまっている。ただ、最後のほうにあった「輸液」についての節は、はっとさせられた。これまでコレラに対する治療法の変遷は、私にとって盲点で、歴史資料の中の治療についての部分は基本的に読み飛ばしていたからである。アッカークネヒト、ローゼンバーグ、ウォーナーらの therapeutic perspective を色々な局面でさんざん強調していた学者として、かなり恥ずかしい。

昨日取り上げた論文もそうだったが、内田の記述は「現代医学から見て何が正しいか」という視点を基本に持ち、ここでも当時の文脈の中での治療法の理解というより、現代の治療法である脱水に対する輸液の起源を辿るというスタイルになっているが、それでも貴重な研究である。

コレラ患者が脱水していることは臨床的に目に見えやすい。早くも1830年にはロシアやイギリスの医者たちが水分を静脈に注入することを試みているし、塩類溶液を浣腸により直腸に注入する方法も試みられていた。1880年代の半ばには、イタリアの医師カンタニーニが、1884年のナポリのコレラ流行に際して塩化ナトリウムと炭酸ナトリウムの水溶液の皮下注入とタンニン溶液の直腸注入による治療法を行い、これが一定の成果をあげたのだろう、国際的に広く紹介されることになった。

この治療法は即座に日本に紹介された。1886年の佐藤佐(さとう・たすく)の書物がこれを詳しく紹介している。この方法は同年に大阪府立天王寺避病院の治療でも用いられ、95年には大阪の桃山病院においてもこれに類した治療法が試みられている。

避病院に関する「隔離して患者をほうっておく施設」というイメージには、もう少しニュアンスを与えなければならないだろう。いつから・どのようにして・どこで、避病院が先端医療センターになったのだろうか。