ロンドンのコレラ


ロンドンのテムズ川をめぐる衛生の古典を読む。文献は、Luckin, Bill, Pollution and Control: a Social History of the Thames in the Nineteenth Century (Bristol: Adam Hilger, 1986).小さな出版社から出ているので見落としていたけれども、著者は有名な公衆衛生の歴史学者で、何度も繰り返し読むに値する洞察が詰まっている書物。

19世紀の中ごろ、テムズ川から供給される水道の汚染がコレラの原因だと考えられていく過程を分析した章を読む。ロンドンのコレラ流行は四回あり、1831-2, 1848-9, 1853-4, そして1866 である。そのうち、最初の流行を除いて、ロンドン域内の地域ごとの死者や患者数などのデータが同時代に出版されている。当時の医者や衛生行政家たちは、それらのデータを使い、あるいは自分で疫学的な調査を行って、コレラの原因や対策をめぐって激しい議論をしていた。この中で、もっとも有名なのが、1854年のジョン・スノウによるブロード・ストリートのポンプの疫学的な観察である。これは、汚染されていないテムズの上流から水を採取している水道会社を用いている世帯ではコレラが少なく、下流から採取している水道会社の利用者にはコレラが圧倒的に多いことを鮮やかに示した、疫学の古典中の古典である。この説明は長期的には受け入れられたが、すぐには受け入れられなかった。コレラが経口糞便で感染する病気であると知っている後世の我々から見ると、このように鮮やかな仕方で「真理」を捉えた説明がなぜすぐに受け入れられなかったのか、苛立ちを感じるところである。

この章は、その部分を丁寧に説明している。スノウの理論を「コレラに特定的な病因で汚染された水だけがコレラを引き起こす原因である」という「強い」形で捉えると、たしかにこれは受け入れられなかった。当時優勢だったミアズマ説は、特定病因という前提には反対していた。しかし、「不潔感がある」(これは「臭い」こととほぼ同義だった)水が、コレラの原因の一つであるということは受け入れていた。だから、たとえば川沿いの低地にコレラが多く、ロンドンの北部の小高い地域に少ないという「事実」は、前者は川から立ち上るミアズマを含んだ霧にすっぽり包まれるのに対し、後者には霧が届かないからであると説明された。スノウの理論をそのまま受け入れなくても、テムズの水が問題であるという方向で対策を立てることができたのである。

画像は、今日はちょっと珍しいものを提供しましょうか。明治19年の宮城県の塩釜でのコレラ流行のときに描かれた「コレラ地図」で、奥羽日日新聞に掲載されたもの。「農業と漁業を兼業にしているものに患者が多い」という観察をしている。スノウの地図のようなものを描きたかったんだろうな。