心臓の歴史


未読山の中から、心臓の歴史を一般向けに解説した書物を読む。文献は、Peto, James ed., The Heart (New Haven: Yale University Press, 2007).

ロンドンの新しい文化スポットになっている感すらあるウェルカム医学博物館の展示に基づいて編まれた書物。心臓の文化史についての論文が9本並んでいて、だいたい古代から現代までカバーしている。これに、著名な心臓外科医や心臓移植手術を受けた患者などへのインタヴューがついていて、現代の医学の医者・患者の問題と、歴史的な研究の間に端を架けよう、少なくとも同じ空間に置こうとしている。想定されている読者は、医者や患者なども含むから、文化史の章は必ずしも学術的ではないけれども、とても読み応えがあった。まず、なによりも、見て美しく読み解いて面白いレアなイラストが満載である。「こんなものがあったのか」と驚くようなものが続々と出てきた。

古代エジプトの心臓の秤量の神話から出発して、アステカ帝国で心臓をえぐりだして犠牲にささげていた話と、キリスト教の贖罪の話を並べて、どちらも心臓のシンボリズムを共有しているという論文は、話がすごく粗いけれども、前者は野蛮で後者は高貴という思い込みは我々の偏見だという議論の方向は正しいだろうし、議論の過程で繰り出される色々な宗教における心臓の神話は面白い。もと神経学者で今はオペラの演出家をしていて新国立劇場でもその作品が公演されているジョナサン・ミラーが医学史の研究者だった時代に書いたハーヴィーの血液循環の発見は、重要な洞察を含んでいる。レオナルドの心臓の解剖を論じた論文は、彼が解剖したウシの心臓のスケッチと、現代に実際に行われたウシの心臓の写真を並べて載せていてインパクトがある。エルヴィス・プレスリーの1956年の大ヒット「ハートブレイク・ホテル」を論じた論文は、知らない話ばかりで面白かった。

しかし何と言っても一番の収穫は、Emily Jo Sargent という学者が書いた The Sacred Heart という論文で、バロックの時代の「聖なる心臓」のシンボリズムを、女性宗教家たちの例から分析したものである。宗教的なキリストへの愛と、地上的な肉体の愛という、本来区別されるべき二種類の「愛」が、その区別がつかなくなるほど接近して、キリストの肉体、特にその胸の聖痕と心臓が肉体的な愛の対象だったことを論じたもの。身体についての画像はわりと良く見てきたつもりだけれども、驚くような図版が一番たくさん使われていた。