『幕末百話』

必要があって、幕末の古老の話を採集した、聞き書きの元祖のような作品を拾い読みに読む。文献は、篠田鉱造『幕末百話』(東京:岩波文庫、1996)

篠田鉱造は報知新聞の記者で、先日取り上げた『食道楽』の村井玄斎のもとで記者修行をしたという。明治35年から紙上で古老の実話聞き書きの連載をはじめた。時代とともに消えていってしまうエフェメラルな情報を庶民に語ってもらうというこの企画は好評で、明治38年には単行本化された。私自身は、聞きとりとかオーラル・ヒストリーはしないし、こういう「物語り」という形式で語られた内容が、史実として非常に複雑(で面白い)ことは意識しているから、この手の情報は学術論文では素のままでは使わないけれども、憶えておくと「何かのヒントになる」情報ばかりだった。そういった話を二つほど。

ひとつはコレラである。安政のコレラは「大コロリ」と呼ばれていた。江戸は1858年の夏にコレラに蹂躙され、社会の基本をなす人間関係の構造 - たとえば隣人との協力だとか、そういったこと - が脅かされた。それをこの物語の語り手は「義理も人情もなくなった」と表現している。そして、彼は東京を逃げて大阪に行こうと思う。東海道を品川、大森と行くと、そこらじゅうコレラ患者ばかりで、これは剣呑だと思いながら横浜につくと、横浜では、この病気のはじまりは異人の船から横浜に上陸したもので、江戸にも大阪にもすでに病気は蔓延したと聞く。彼は驚いて、それなら大阪に行っても仕方がないと思い、結局江戸に帰ってくる。また、横浜で、異人が海で白い泡を立てて毒を流し、それが魚の腹の中に入って病気が流行したという噂話を聞く。情報の量が少ないというよりも、むしろ無秩序で、ローカルな情報に基づいて人々は行動している。明治に入って、内務省が情報を流すようになったときは、どうなったんだろう。

もうひとつは狐つき。この話が採録された明治30年代には「狐つきなんかはとんと見ない。あれは一種の発狂なのか」と語っているが、嘉永2年は江戸で狐つきのあたり年であった。(狐つきにも流行があったんだ。)この年には、神田和泉町一番地に屋敷を構えていた旗本、能勢の敷地内にある稲荷神社が人気をよび、「能勢の黒札」でなでると狐が落ちるといわれ、霊験あらたかであった。これを見ていた語り手は、狐つきのふりをして窮地をしのぐことを思いつく。商品を持ち逃げして質に入れて金に換え、吉原で女郎遊びをしてはたと困った彼は、狐つきのふりをする。(そのために、「わらじを12,3足、腰に提げた」とあるが、わらじを腰から提げるとどうして狐つきのふりになるのかしら?)この目論見はうまくいき、周りの人が両親に知らせたりして、本人は狐が落ちたときの殊勝な工場などを考えて悦にいっているが、稲荷神社に連れて行かれて、乱暴に打たれたりしているうちに、ある侍が、この人物は狐つきでも発狂でもないと見破って、仮病が露見したので、一目散に逃げたという。