同じ編者による、古老による明治の世相や風俗の聞き書き。文献は、篠田鉱造『明治百話』(東京:岩波文庫、1996) こちらは新聞への連載ではなく、『幕末百話』の続編の単行本として昭和6年に刊行されたもの。中村草田男の「明治は遠くなりにけり」が昭和11年だから、そのくらい。
こちらも面白い話が満載で、二つだけ憶えておくために。病院看護の嚆矢、家庭看護の嚆矢という二つの話が取られている。ひとつが明治26年の「悪疫チブス」が東京で流行したときに、鈴木雅子が北里、高木と相談して慈善看護婦会を「東京看護婦会」と改称し、一般の病家に看護婦派出を盛んにするようになったという。ちなみに、病院(大学病院)には、三宮夫人というイギリス人女性で日本の宮様(だろうか?)と結婚した女性が乳がんで入院したときに、この語り手(大関)が看護したという。
同じ看護婦が、家庭に派出されたときの話も、別の項で採録されている。もと幕臣で慶応を出てフランス語の通訳になった長田という人物が病気になって、彼の家で在宅看護をしたが、「看護婦の権威に従う」という経験がないというか、そういうパラダイムがない(笑)人間を相手に、政治関係がうずまく(だろう)大きな所帯に入って、学校で習った知識とキリスト教の崇高な理念だけを頼りに看護しようというのだから、うまくいくわけがない。看護婦の言うことなどまったく聞かない。その状態で彼女を救ったのは二つ。ひとつは、これは行間を読んで書くのだけれども、医者の権威である。患者に言うことを聞いてもらうためには、医者を通じていってもらうのがよい。もうひとつが、出身である。彼女は、栃木出身の幕臣の娘で、患者である長田はその幕臣と一緒に仕事をしたことがあった。それを知ってから、彼女の仕事をしやすくなったという。初期の看護婦が上流階級の出身で占められていたことは、このような背景もある。
ちなみに、看護の職服を黒くしたものをつけて患者の葬儀に列することを日本で始めたのは自分だろうと彼女は書いているが、私は、実は喪服のナース服をつけた看護婦さんというものを葬儀などで見かけた記憶がない。これは、私がうっかり見落としているのか、それとも喪服のナース服というものをつけるという習慣がなくなってしまったのかしら?