未読山の中から、フランスの美術史の碩学によるグロテスク美術論を読む。文献は、アンドレ・シャステル『グロテスクの系譜』永澤峻訳(東京:ちくま学芸文庫、2004)
「グロテスク」という言葉は多義的である。日常の日本語では、かなり否定的で無気味で醜いというニュアンスを含んで使うことが多い。語源的には、イタリア・ルネッサンス期に発見されて研究されたローマの遺跡の中で、屋敷にしつらえられた洞窟(グロッタ)の壁面などに描かれたような、という意味である。それよりもしばらく前から、北方の写本の余白に書かれた装飾的・遊戯的な挿絵においても、現実にはありえない存在が描かれていた。これを「滑稽画」(ドロルリィ)という。これらの中には、動物と植物、異種の生物、人間と動物などを混交したような怪物も描かれており、こういった存在を写本の装飾から解放して、風景の中においたのがヒエロニムス・ボッシュの絵画だそうだ。
ボッシュの絵画の影響が南方に到達したころ、グロッタの壁画の模写が盛んになり、「グロテスク」な絵画は一世を風靡した。そこでは、遠近法と写実的な構図ではなく、想像力を自由に働かせて、現実から自由になった装飾的な絵が描かれていた。重力は無視され、種の境界は融解して、唐草文様のように繁茂する構図の中に、動物と植物、植物と人間、人間と建築などのハイブリッドが描かれていた。これは、恐ろしい悪夢のような調子を帯びることもあったし、幻想的で優美になってもよかった。「グロテスク」にとって本質的であったことは、想像力を通じて、世界秩序からの解放を楽しむ遊戯性であった。このような「グロテスク」は、16世紀の流行以来、何度も攻撃されて廃り、何度も再生してきた。奇態や奇行が許される遊戯的な空間でつけられる仮面や仮装、重力から自由になったかのように、偶然の蛇行が虚空に描かれるモビールなども、この遊戯的な解放と一脈つながっているという。
私事になるが、私は仮面とモビールをちょっと集めていて、それぞれいくつか部屋に飾ってある。そうか、あれも「グロテスク」なんだ。「グロテスク」が持つ境界侵犯と体制転覆的な側面と強調するカルスタの視点ばかり意識していたので、自分の部屋のささやかな装飾が「グロテスク」だったとは、とても新鮮だった。