必要があって、19世紀から20世紀のイギリスとその帝国を中心とした飢餓の歴史を読む。文献は、James Vernon, Hunger: a Modern History (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2007).
1850年には、「飢えている」状態は、飢えている本人の責任であった。むしろ、「飢え」は、人を労働へと駆り立てて自立させるのに有用なものであり、労働市場や食品市場などに国家が介入するのは、市場原理を阻害して経済発展を妨げ、国家に依存する人口を作り出してしまうとされた。1950年には、「飢餓」は、国家や市場、あるいは国際社会の責任であって、飢えている人々の自己責任ではなく、それゆえに、飢えの背景にある政治と経済と社会の責任を追及する契機となっていた。このように大きく変化した「飢え」の意味を、福祉国家の勝利史観や、サッチャー以降に現れたネオリベラルな史観で語るのではなく、古い道徳的・個人的な飢えの読み方と、新しい社会的な読み方が並存しながら変化する過程を捉えた書物。歴史研究と、「福祉国家を超えて」という現在の関心をつないだ、とても優れた論考で、当該の時代の専門家ではない人間にも読みやすい。
面白い論点はたくさんあったが、ジャーナリズムというかマスメディアの資料を、メタレヴェルでとてもうまく使っていたので、それについて少し触れる。19世紀の後半になると、「飢餓がニュースになる」という、飢餓の意味を大きく変える事件が起きる。ロイターなどの国際報道機関の特派員は、イギリスの植民地を中心に、世界の各地で生じた飢饉をグラフィックに報道し、特に女と子供の飢え、極端な場合は餓死を本国に伝える。現在の「飢餓」においても重要な、「世界のどこか遠くで起きている異邦人の飢餓」の誕生である。これらにおいて表現されている飢えている人々への共感は、植民地経営の方法や、植民地という制度そのものを批判する政治的な道具になった。これと同じ構造は、実は19世紀の半ばのイギリス国内でも、1834年の救貧法の結果作られた、被扶助者を意図的に劣悪に処遇するワークハウスを批判する議論の中で現れている。ここでも、直接的な目撃と、その結果あらわれる「共感」が、飢餓を政治化するのに役立っている。