ロンドンの「病院」の形成

必要があって、19世紀後半のロンドンでの「病院」の形成を論じた古典的な研究書を読む。文献は、Ayers, G.M., England’s First State Hospitals and the Metropolitan Asylums Board 1867-1930 (London: Wellcome Institute of the History of Medicine, 1971).

「病院というもの」が、いつ・どのように形成されたのかという問題は、医学史の大きな問題の一つである。大枠を言うと、長いこと慈善や社会政策の一部として、<貧しくて・病気に罹っている>人々を収容する施設が「ホスピタル」であったのが、19世紀の末から20世紀のはじめにかけて、貧しいという条件が抜け落ち、単に<病気に罹っている>人々を収容して治療する空間へと変容して、いまわれわれが知っている<病院>のもろもろのタイプに近いものが作られる。この、現代型の病院が形成される過程は、もともとのホスピタルがどのような組織であったのか・どのような人々を対象にしていたかによって、違う経路をたどり、これらを簡潔に分かりやすく説明するのは難しい。

その中で、イギリスの救貧法のもとで作られたワークハウスから、<病気に罹っているもの>が取り出されて、政府の直轄の組織である首都保護院委員会 (Metropolitan Asylum Board) が管理する<病院>へと変容する過程をたどったものが本書である。1834年救貧法は、<ワークハウス>を中心にして救貧事業を定義しなおす大きな転機であった。それまで貧民を現金給付に依存して自宅で生活することを可能にしていた旧救貧法を改めて、原則として救貧はワークハウスでのみ行われるとし、ワークハウスの生活水準を意図的に下げ、それを過酷で懲罰的なものにすることで(劣等処遇の原則)、貧民がワークハウスを恐れて勤勉に働くことを期待するものであった。これが念頭においていたのは、身体は強健だが怠け者の貧民であったが、実際に運用を始めてみると、当初念頭においていたタイプの貧民とは異なったものがワークハウスに集まることになった。その気になれば労働によって自活できる貧民でなく、障害者、老人、虚弱者、子供といった、そもそも自活できるような賃金を労働によって稼ぐのが難しい人々がワークハウスの人口の大半を占めた。1860年代には、訳300万人のロンドン市民のうち2万8000人が市内のワークハウスに入っていたが、その約半分は老人と虚弱者であった。

そもそも、病気や障害などで貧困に陥ったものが、懲罰的な施設に入ることの非合理は、新救貧法が始まったときから、保守と革新の双方から批判されており、できればこのようなもののためには別の建物を設置することが望ましいとされていたが、これに従った自治体は少なかった。1860年代に入って、いくつかのスキャンダルがワークハウスで起きて、公私の調査が行われた結果、改革の機運が盛り上がり、ナイチンゲールを中心にして、「病気で貧困に陥ったものを、貧民扱いしてはいけないから、別の施設で看護すべし」という声が高まった。これは1867年に救貧法の改正という形で結実し、伝染性の熱病と、精神障害にかかっているワークハウスの貧民は、医師の証明書のもと、ワークハウスから出て、特別な病院に移送することができた。この病院の経費は、ワークハウスを運営する救貧法の行政区ではなく、政府が負担したため、これらの熱病・伝染病院と、精神障害院は、ワークハウスから押し出された<病人>たちですぐにいっぱいになった。 そして、これらの、ワークハウスから取り出された病院は、ほかのタイプの病院(寄付病院)が、医学教育と先端的な医療を提供する場になったのとは違う方向をたどることになった。