医者の社会常識の歴史(笑)

今日は純粋な無駄話です。

麻生首相が「医者は社会常識が欠如した人が多い」という発言をした後に、謝罪・撤回をして、ちょっと話題になった。色々な意見はあると思うけれども、大筋のところでは、医師会の抗議はもっともで、謝罪に値する軽率な発言だというのが、大体の合意じゃないかと思う。 

もっと大切なのは、医者は本当に社会常識が欠如しているかという問題である。 これはもちろん難しい問題で、現代の医者たちについては、私は語る資格がない。 私が個人的にかかったお医者さんについては、少なくとも私から見ると(笑)、社会常識の鑑であるといっていい。 それだけでなく、私が医学史の研究をしているということを知っているお医者さんは、打診などのレトロな診断技法を使って特別サービスをしてくれたり、新しい画像診断で何がわかるようになったかを熱く説明してくれたりするから、私は大いに満足している。 しかし、言うまでもないことだが、打診をしてもらったからといって満足度が上がる患者はたぶんあまり多くないから(笑)、これはまったく参考にならない。 

歴史の話をすると、中世から18世紀くらいまでの初期近代は、社会常識がない医者の全盛時代-少なくともそれを批判したり風刺した作品の全盛時代である。病気も治せないくせにペダンティックで気取った医者をこっけいに風刺して描くのは、モリエールが何度も使った十八番のテーマだった。 上流階級の仲間入りをしようとして生齧りのラテン語を振り回してかつらをつけて気取って歩く医者は風刺の格好の素材だったし、ペトラルカは、医者に対するむき出しの軽蔑を記している。 もちろん尊敬された医者もいたけれども、医者という職業には、曖昧さがつきまとっていた。社会常識の欠如も含めて、医者の欠点に注目して、それを情け容赦なく強調する文化の中で医者は暮らさなければならなかった。

医者「という職業」が尊敬されるようになったのは、19世紀後半から20世紀の半ばにかけてだと思う。その時代には、科学の進歩による幸福の増大と福祉国家の進展によりその恩恵をすべての人に分配するという、時代の進歩のヴィジョンの中枢に医者は位置を占めた。 基礎医学の研究者たちは、人類を病気から解放する救い手になり、臨床の医者たちは、それを個人の患者にさずける使徒になった。 もちろん、軽蔑され不満を持たれた医者もいた。 (特に精神科医がそうかもしれない。) しかし、医者を信頼して期待することが、社会のヴィジョンに合致していた。 その中で、医者という職業が尊敬されていった。
 
現代では、医者という職業への尊敬を支えていた科学の進歩と福祉国家の進展という二つの神話は、明らかに求心力を失っている。 医学は確かに進歩しているし、素晴らしい可能性を持つ発見はされているが、20世紀の前半から中葉のように、劇的に平均寿命を延ばすことはない。福祉国家を支えるコストは増大し、その批判者が選挙に勝つという事態は日常的に起きている。 現在の社会の進歩のヴィジョン(それがもしあるとしたら)の中枢から、医学ははずれつつある。 

現場のお医者さんたちにとっては納得できないかもしれない。 診断の精度は上がり、治療率は多くの病気で確実に上がっている。 新しい技術と制度のおかげで、救急で運び込まれて助かった妊婦の数そのものは、おそらく増えているだろう。(これは想像ですが。) それにもかかわらず、人々は医者の欠陥を声高に指摘し、その達成にわがことのようにスリルを感じなくなっている。 医学は、社会と文明の未来の幸福の鍵を握る職業ではなくなった。 その意味で、医者という職業の「黄金時代」は終わったといっていい。 かつての、自分がかかったことがない医者をあらかじめ尊敬しておくという、非合理的な行為を支えていた二つの神話が色あせてきたからである。  

社会常識から話がすごくずれた。 学生のレポートなら、「問題設定と論述の内容が一致していません」とコメントするような記事で申し訳ないけれども(笑)。