『ファイト・クラブ』

必要があって、映画『ファイト・クラブ』を観る。1999年の作品で、デイヴィッド・フィンチャーの監督、出演はエドワード・ノートン(『超人ハルク』、ブラッド・ピット、ヘレナ=ボナム・カーターなど。以下の記述には盛大なネタばれがあります。

大企業に就職して世界中に出張し、小奇麗なアパートに住んでおしゃれな北欧家具でインテリアをそろえるのが夢という、若いホワイトカラーの男が主人公。彼が人生に対する漠然とした不安(なんて的確な文句なんだろう・・・)から不眠症になり、不全感と空虚な感じを持ち始め、その結果、もう一つの人格を妄想の中で作り出し、その人格が自分とは独立に存在する現実だと思い込んで、彼と会話を始めたりする。その作り出された人格とは、中産階級の消費生活のすべてを否定し、男同士で血まみれになって殴りあうことに存在意義を見出す、一言でいえば、これまで主人公が歩んできた善良な小エリートの対極にある存在であった。(これをブラピが演じている。)主人公は、その人格と協力して、男たちが集まって殴りあう「ファイト・クラブ」を設立し、そのクラブがアメリカ中に広がって革命的テロ組織にまでなっていくという、破天荒だけどダークさがある話である。ドッペルゲンガー映画の常道だけれども、最後は二つの人格の対決になって、主人公が自分の妄想に気づき、それと同時にその妄想と格闘し、その妄想を倒すために銃で自分の頭を打ち抜いて自殺する。

ささくれだったパンクの映像がスタイリッシュだけれども、それ以上に、現代の中産階級の浅薄な自己満足と偽善をえぐる醒めたまなざしが冴えている。大都市のホテルの空疎な洗練や、北欧家具ももちろんだけれども、一番よかったのは、末期がんなどの患者の自助グループの薄っぺらな精神世界(自称)と自己満足と自己憐憫に向けられた、容赦ない皮肉だった。海外出張しては大都市のホテルに泊まり、北欧デザインのものを有難がり、患者の自助グループなどと一緒に仕事をしようとしている私自身からみて、自分のみっともなさが情け容赦なくえぐるように描かれている痛快さがあった。だからといって、殴り合いをはじめるとは思わないけれども(笑)