必要があって、古代から中世・近代初期の錬金術思想を題材に、自然と人工の緊張関係の歴史を論じた研究書を読む。文献は、Newman, William R., Promethean Ambitions: Alchemy and the Quest to Perfect Nature (Chicago: The University of Chicago Press, 2004). 初期近代の科学史の本格的な研究書だから、非常に水準が高くて、読んでいて幸福になる。
自然と人工はどのような関係にあるのかと問いは、少なくともヨーロッパでは神話時代以来の問題であり、アリストテレスをはじめとする哲学者たちは、両者の関係について深い考察をめぐらせていた。この関係を難しさをもっとも先鋭に浮き彫りにするのが、錬金術というわざであった。金という完全な金属を自然は作ることはできる。あるいはキリスト教の神ならもちろんこれを創造できる。その金を、人間が技によって「作る」ことができるとしたら、それは原理的には何を意味するのだろうか?人間が自然を完成できるということ?自然を超えることができるということ?神のようになれるということ?このあたりの自然と人工との複雑な関係をめぐる思考は、現代の生命操作技術やヴァーチャル・レアリティなどをめぐる議論と通じるところが大きいということも示唆されている。こういう、歴史上の議論は現代の倫理的な問題に通じるという示唆は、多くの場合は科研費の研究報告書の最後を適当に締めるために使われる陳腐な常套句になってしまうが、この書物では、歴史の深いところまで掘り下げて考えているので、スリルすら感じた。
第三章の視覚芸術と錬金術の関係を論じた章と、第四章のホムンクルスを論じた章を読む。第三章が知らないことばかりで面白かった。錬金術が自然の作用を復元する技術だとしたら、絵画をはじめとする視覚芸術も自然を再現する技術である。錬金術も絵画のどちらも、宮廷の庇護を受けて栄えた技術であるからある意味でライバル関係にもあり、また絵画は錬金術がもたらす色鮮やかな絵の具を必要としたこともあって、自然を復元・完成する技術として、錬金術と絵画は、どこが同じでどこが違うのかという議論が16世紀にされていたということを学ぶ。ベルナール・パリッシーという16世紀フランスの陶工の作品は、リアルな蛇やトカゲがうごめくように配されたエナメルコーティングの皿で、ロンドンのV&Aなどで一度見たら忘れないけれども、そのパリッシーが「自然を再現するとはどういうことか、それは錬金術とはどう違うのか」という本格的な議論をしていることを知る。
画像は、V&A 所蔵のパリッシーの作品。