発展途上国の治験とプラセボ

未読山の中から、最近の臨床試験や治験が発展途上国の患者を実験台にして行われていることを告発した書物を読む。文献は、Shah, Sonia, The Body Hunters: Testing New Drugs on the World’s Poorest Patients (New York: The New Press, 2007). 著者はジャーナリストで、石油についての書物は翻訳もされている。

治験のアウトソーシングのメカニズムと、そこに存在する問題を分析し、告発している書物。新薬の開発には必ず治験が必要だが、2006年現在、アメリカに本拠を置く製薬会社の治験の約半分は海外、それも東欧、アフリカ、インドなどのアジア諸国で行われている。この発展途上国への治験のアウトソーシングは、先進国と途上国の間の格差に原因がある。発展途上国には患者が多く(これはもちろん病気の種類にもよるが、この本の主役の病気はAIDSなので、これは発展途上国に圧倒的に多い)、実験をするコストも低く、また苦痛があり、あるいは危険である可能性もある治験患者を志望するものを集めやすいという事情がある。一方で先進国の大学病院などでは、治験に関する厳格なプロトコールがあり、患者が少なく、また、実験台になろうという患者も少ないから、治験に時間がかかる。つまりコストの差によって、治験の場が先進国から発展途上国に移転し、そのために発展途上国の患者が実験台になっている。それを専門的に請け負う会社もあるそうだ。

この部分はシンプルな話だけれども、読み応えがあったのは、プラシボの話である。北米のAIDSの流行の初期に問題になったと記憶しているけれども、治験のときに対照群としてプラセボを投与される患者は、正当な治療の機会を奪われていることになりはしないかという倫理的な問題がある。(北米のAIDS云々に関しては、記憶で書いているので、細かなところで間違っているかもしれない。)特に、ある程度有効な治療法が既にあり、それに代わる治療法を開発しているときに、新薬を承認させるためにプラセボを与えるのは、倫理的に適正でない可能性がある。このディレンマを、発展途上国の患者を使うことによって、プラセボを対照群にすることで突破できるという考えが、1990年代末に表明され、主流になっているそうだ。つまり、発展途上国の患者であれば、通常は何の治療を受けることもできないから、プラセボ対照群に入れることには倫理的な問題はないとする見解である。アメリカで開発されたAIDSの治療法が、薬の投与を半分にして切り詰めた簡略版の方法でも有効であることを示すときに、南アフリカで行われた治験は、プラセボを対照群としたものであった。「プラセボを与えられた開発途上国の貧しい患者は、もともとも何も期待できないのだから、彼らから何かを奪っていることにはならない」という形でこの治験を正当化することは、「患者を救うために全力を尽くす」という医師の倫理に抵触する可能性がある。控え目にいって、これはかなりの議論の余地があり、実際に1997年に大きな論争になった。この慣行を最初に告発した医者の書き方にも問題があったのかもしれないけれども、北米の医者たちがこぞってこの慣行を擁護したのは、私には意外だった。 

私は生命倫理学者ではないから、これを倫理的に厳密に考えるとどうなるのか分からないが、先進国だと倫理に反する可能性が高い「産業」を、開発途上国に移転して、そこの患者の貧しさにつけこんで操業しているのは、確かに暗澹とした気持ちになる。それよりなにより、それでなくても悪いイメージがつきまといがちな、巨大多国籍企業の製薬会社のマイナスイメージに拍車をかけるような気がする。あと、発展途上国と先進国では、苦痛の値段まで違うのかということに思い至ったときに、希望の灯が一つ消えた感じがした。 

ジャーナリストらしい勢いがある文体で書かれていてとても読みやすいし、過度に単純化していないところも、私は好感を持った。題名の Body Hunters は、治験の実験台を求めて世界の貧しく病気が多いところに治験を移転させている製薬会社などのことだが、これはもちろん、かつての病気の原因である病原体の発見を求めて世界中をまたにかけて研究した Microbe Hunters (「微生物の狩人」)を下敷きにしている。

プラセボのエピソードは、適度に複雑で、医療社会学とかバイオエシックスの学部生向けの一回分の授業にちょうどいい。