パナマのバナナとその病気

必要があって、中米のバナナの病気「パナマ病」のインパクトを分析した論文を読む。文献は、Marquardt, Steve, “’Green Havoc’: Panama Disease, Environmental Change, and Labour Process in the Central American Banana Industry”, American Historical Review, 106(2001), 48-80. 私の記憶では、このブログで植物の病気を論じたのは初めてだけれども、この論文は、労働史と環境史の傑作と言っていい。

1890年ごろからパナマ地方とコスタリカなどその周辺でバナナの栽培が本格化する。1899年にはユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFCo)も設立され、アメリカ向けに輸出されるバナナを栽培する大規模な農業が中米地域に広がる。いわゆる「バナナ・リパブリック」の開始である。バナナ・リパブリックについてはこれまで多くの研究があるが、これまで無視されてきた、土中に棲むフザリアムという菌が起こすバナナの病気に注目したのがこの論文。

市場と労働をコントロールしようという資本主義が、自然のコントロールという課題に対して自らを成型し、環境とそこで働く人間を根本から変えたストーリーであると理解できる。

ユナイテッドによる初期のバナナ栽培においては、慣用的な方法が行われていた。焼畑や下刈りなどを行い、自然の堆肥を使って湿地に植えるものであった。もともとパナマ地方にはバナナはなかったので、西インド地方からの移民労働者を受け入れ、彼らが知っている土着的な方法であった。このような労働構成のもとでは、経営側は労働者の知識に依存しており、経営と労働者に間には平衡 (equilibrium) と呼べるものが存在していた。

1910年代に始まったパナマ病は比較的ゆっくりと広がり、壊滅的な被害を次々に与えていった。1915年に土中に棲む菌が原因であるとわかり、ユナイテッドは農学者などによる調査研究を行い、土壌と排水が原因であるという推測のもと、科学的・合理的で画一的な新しいバナナ栽培を始めた。パナマ病に耐性を持っているバナナの種類も発見されたが、これらを採用することはしなかった。当時独占的に栽培されていたのは Gros Michel という種類であるが、これは皮が厚く、移動してもいたみが少なく、産業全体がこの種類の性質を全体に構成されていたからである。

新しい科学的なバナナ栽培は、土壌の科学に基づいて比較的乾燥した土地へと転じ、大規模な灌漑工事をした。そこで巨大な獣が咆哮するかのような轟音を立てる掘削機は、人工と自然の闘いを象徴していた。これらの新しいバナナ栽培園は、それまでの慣習的な栽培法を捨てて科学的に管理されたものを採用し、それにともなって、西インド諸島の移民労働者ではなく、地元のバナナ栽培を知らない労働者が雇われた。作業は細分化され、バナナ栽培の奪スキル化が進んだ。

その後もパナマ病は繰り返し同地を襲った。化学薬品による消毒も、遺伝的に同一なバナナ(バナナは地下茎で増やすそうだ)のモノカルチャーという極度に単純なエコシステムのもとでは、すぐに薬品に耐性を持つ菌を発生させた。

結局、ユナイテッドのバナナ病との闘いは、スキルを失った労働力と、開墾しては化学薬品に汚染されて失われていく広大な農地を残すことになった。バナナ病をコントロールしようという資本主義は、ランドスケープと労働力を激変させたのである。