バレンタインの記事

必要があって、アルフレッド・ウォーレスのマレー諸島の博物誌を読みなおす。文献は、アルフレッド・ウォーレス『マレー諸島』上・下、新妻昭夫訳(東京:ちくま学芸文庫、1993)

著者はダーウィンど同時期に進化論を構想したことで名高い博物学者。1854年から62年までの間にマレー諸島で博物学・自然誌の研究を行いそのリサーチに基づいて出版したのが本書である。ダーウィンと肩を並べるような優れた自然誌研究者の面目躍如たる記述が随所にある。有名な「ウォーレス線」の概念が論じられているのも本書である。

本来、あるエピソードを確かめる簡単な調べ物のはずだったけれども、時間に余裕があったので、だいぶ前に読んだ記憶を取り戻しながら、いくつかの章を読む。その中で、記憶から消えかけていたエピソードで、バレンタインにふさわしいものを。 

ウォーレスは1857年からアルー諸島のドボという小さな町で過ごした。ドボはアルー諸島を訪れる商人たちの交易地であり、中国人の商人たちや、ポルトガル人の子孫たちが、先住民やマレー人と商いをする活気がある町になった。そこでは、生食用のバナナを売る屋台があり、通りでは、少年たちが、甘いご飯にココナツライスをかけたもの、魚に揚バナナなどの食べ物を売り歩く。この食べ物を売るときの文句が、「ショコラーッッット!」であった。これはもちろん「チョコレート」のことだが、その売り子はチョコレートなど売っていない。揚げたバナナであれ魚であれ何であれ、売り歩く食べ物なら「ショコラーッット」という掛け声で売り歩くらしい。

ウォーレスは、この「ショコラート」は、もともとスペイン語かポルトガル語に違いないが、何世紀ものあいだ、口から口へと伝えられるあいだに、本来の意味を失ったのだと推理している。たぶんその通りだろう。もう一つ付け加えると、その間違いを訂正するべきスペイン人やポルトガル人などがいなくなってしまったという事情もあっただろう。日本人が、城の絵が描いてあった箱に入っていた焼き菓子を「カステイラ」だと教わって、それからとにかく焼き菓子であれば何の箱に入っていようと「カステイラ」と呼び続けているのと似ていて、微笑ましい。ポルトガル人が日本にとどまり続けて、その誤解を直していたら、私たちはいま「カステイラ」を持っていないことになるのかな。

まったくの無駄話になってしまったけれども、この書物は、こういう楽しいエピソードもたくさんある、自然史の傑作。玉に瑕というべきは、冒頭に近い、オランウータンを採集するための虐殺の章。ラジャの人口調査の話は、感染症の医学史研究者が一度は読んでおかなければならない寓話で、これまで使われていないのが不思議(笑)