アンソロポエミー(人を「吐き出す」こと)

昨日のバウマンの記述の中で感心した部分の一つが、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』から、アンソロポファジーとアンソロポエミーの対概念を引いている箇所だった。『悲しき熱帯』は読んでいるつもりだけれども、正直、こんなことが書いてあったかなあと思って調べてみたら、もちろんあった。終わり近くの「回帰」の章、私が持っている中公クラシックスでは、下巻の376-7ページにまたがる一つのパラグラフにわたって触れられているアイデアである。

民族学者は、調査先の未開社会では、その社会の特徴を観察理解してそれを批判することはせず、一方、自分が属している西洋近代の社会においては不正と戦うというパラドックスを本質的に抱え込んでいるという大きな問題の中で、未開社会の「食人」をあげている。食人は、われわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる習慣である。死者の徳を身につけ、死者の力を無力にするために、親や祖先の体の一片や敵の死体の一片を飲み下すこと。あるいは、微量を粉にしたりして、他の食物に混ぜたりすること。これらの行為は、しばしば未開社会の野蛮さとして非難される。この、食人を文明の対極として非難する行為は、モンテーニュ以来、自分たちの文明の姿に対する無知と無反省に基づくものだとして論じられていて、レヴィ=ストロースも、その伝統の中で書いている。医学史家として付け加えると(笑)、人体を薬として用いることは、近代ヨーロッパでも、江戸から明治の日本でも行われていたから、これはいわゆる未開社会だけの問題ではないし、あと、しばらく前におとぼけ女医さんに教えていただいたことだが、現在でも、ヒトの胎盤はプラセンタとして医療に利用されているとのこと。

我々はあるまじきこととして食人を非難するが、それに対して、我々の司法と刑罰の中心である、監獄に閉じ込めて社会から切り離すという行為は、いわゆる未開人から見たらどう見えるだろう、というのがレヴィ=ストロースが提出している疑問である。食人はヒトを食べること(アンソロポファジー)であるとしたら、監獄はヒトを社会と共同体から吐き出すこと(アンソロポエミー)ではなかろうかという洞察である。そして、レヴィ=ストロースによれば、未開社会はアンソロポエミーを野蛮で無意味なものと考えるだろうという。北アメリカの平原インディアンの例を引いて説明しているけれども、そこでは、罪人と社会から吐き出して切り離す仕組みはなく、罪を犯したものと、警察にあたる組織と、共同体が、それぞれ贈与を与え合い、それに対して返礼をするという長々しい過程の中で、秩序が回復されていく手法が取られているからである。

ネット検索でちょっと調べてみたら、この箇所を憶えていないのは私だけで、レヴィ=ストロースの読者の間では有名な箇所らしい。確かに、改めて読んでみると、大きなインスピレーションを与えてくれる対概念であって、バウマンの本を読まなければ、私は『悲しき熱帯』が本棚にあるのに、その可能性に一生気がつかないまま過ごしていたのだろうと思う。無知と不明を改めて恥じ入る。