産業医学と医学専門職

必要があって、イギリスの労働衛生史の研究書を読む。文献は、Gray, Robert, “Medical Men, Industrial Labour and the State in Britain, 1830-50”, Social History, 16(1991), 19-43. 

1830年代から40年代にかけて「労働時間10時間制限法案」をめぐって、医者たちは労働衛生の見地から積極的に発言した。これは、もちろん、医学という専門職が地位を向上させて政策に影響力を持つようになる過程の一こまとして見ることができる。しかし、現実派、医者の専門職としてのステータスは当時ははるかに脆弱であった。内科と外科の懸隔や、ロンドンのエリート・コンサルタントと地方の開業医のギャップなど、激しい階層の違いにより分裂しているといってもいい職業であった。実は、そのような問題を持つ医療職を改革し、より同質的な教育や資格認定制度などを持つ、均質的な構造の専門職を作ろうとする運動と、医者が労働衛生などの社会問題にかかわることは、深い関わりがあった。マンチェスターのジェイムズ・ケイは、貴族や名士を診るエリート医者ではなく、労働者の健康や傷病を直接知っている医者こそが重要なのだというポレミックを組み立てていた。医学と医療はどのようなものであるべきかという当時の医者たちの間で戦わされた議論は、医者たちが形成した政治的・宗教的なコネクションと関係があった。医者たちは単体で活動したというよりも、地元の富裕で有力なパトロンの思想や行動に共感・共鳴・追随して活動したからである。宗教・政治と、実験生理学、統計、環境論的疫学などの当時の新しい医学は、少なくとも緩い形では結びついていたのである。

つまり、当時の医者たちは社会的なヴィジョンを共にするパトロンたちに依存している状態であり、それを考えると、彼らの労働衛生は専門職形成の視点だけから捉えるわけにはいかない。しかし、彼らが、専門職としての自己像を労働衛生に投影し、フィランソロピーや社会改良に専門職としての存在感を示したことは重要であった。この時期の労働衛生は、専門化というよりも、社会的な関心を基盤に、合理性のイデオロギーをテコにして、中産階級の中に医学という専門職を形成しようという身振りをみてとるべきである。