未読山の中から、イタリアのデモノロジー(悪魔学・精霊学)の研究書を読む。文献は、Maggi, Armando, In the Company of Demons: Unnatural Beings, Love, and Identity in the Italian Renaissance (Chicago: The University of Chicago Press, 2006).
学術書だけれども、きちんとした構成にしたがって論理的に展開する書物ではない。四つか五つのテキストについての詳細な解釈を、1章につき1テキストで合計4章(イントロを入れると5章)並べたもの。議論には繰り返しも多く、本来なら苛立つべき構成の本だけれども、これほど引き込まれて読む本も久しぶりだった。素材になるテキストの内容が圧倒的に面白く、その解釈は冴えわたり、また全体として志向している方向性もとても面白い。
Daemon (精霊) には色々種類があって、天使も堕天使(サタン)の他に、ローマ時代に信じられていた祖先霊や死者の霊、夢魔といわれたインクブスやスクブスなどがいる。これらは、本来、非物質的で目に見えないものだけれども、人間とコミュニケーションできるように、仮の肉体をまとう。そのときに精霊がまとう肉体というのは、人間と関係を持つためにある姿をとる。つまり、人間との関係性の中で作られる肉体の中に、それぞれの精霊は宿るのである。つまり、精霊の姿というのは、人間という読み手を想定した比喩なのである。その一方で、個々の精霊は「個性」を持っている。抽象的な悪の原理としての the daemon ではなく、それぞれの個性と歴史を持ち、自分の人生についての記憶を持っている daemons がいるのである。
この肉体は、空気を圧縮して作られると考えられていた。これは、私たちが呼吸して体の中に取り入れる空気である。私たちが住んでいる空間も、私たちの体の中も、精霊の肉体の素材に満たされていることになる。ルネサンスの世界と人間は、文字通り、精霊に満たされていたのである。
精霊は、そのようにして得た肉体を使って、個々の人間と密接な関係を結ぶ。祖先霊のように家や子孫を守るものもいるし、召使のように使える精霊もいる。人間をたぶらかして愛させる場合もあるし、精霊のほうから人間に恋をする場合もある。人間とセックスして子供ができて、ミュータントが生まれる場合もある。
肉体を持たない死者が、記憶を用いて仮の肉体・存在を獲得し、人間とセックスしてミュータントの子供ができるというのは、鈴木光司が『リング』三部作で効果的に用いた主題である。ビデオテープだとかウィルスだとかDNA情報だとか、新しいテクノロジーや科学知識を使っているけれども、あの作品が深い恐怖を呼び起こすのは、デモノロジーと同じ道具立てを使っていたからなのかと納得する。
『リング』の話はさておき、この本から、感染の問題と、障害の歴史の問題という、私の研究の二つのテーマについて、深いヒントをもらった。全く関係がない主題の研究書から、これだけインテンスなヒントをもらうことも少ない。