必要があって、産業疲労の生理学についての論文を読む。文献は、Gillespie, Richard, “Industrial Fatigue and the Discipline of Physiology”, in G.L. Geison ed., Physiology in the American Context, 1850-1940 (American Physiological Society, 1987), 237-262.
オクスフォードの生理学者のチャールズ・シェリントンは1918年に「旋盤工」の仕事を実際にやってみて、時間がたつにつれて疲労が蓄積して能率が落ちていくことを語っている。これは、イギリス政府が行った産業疲労 (industrial fatigue) についての調査研究の一部であった。この時期に、生理学は「産業疲労」の問題に積極的にかかわっていたからである。産業疲労という概念は、生理学的な疲労、心理学的な疲労はもちろん、労働現場での不規律、生産の低下、事故や労働者の不健康、そしてなによりも、ロシア革命の直後であることもあって、労働者の間に不穏で経営に敵対的な騒動を引き起こすとされた。また、産業疲労は、進歩する技術と、不変の人間としての基本的な必要との間の齟齬という、現代社会の本質が体現されていると考えられた問題であった。この時期の生理学者は、産業疲労の問題を生理学の中に取り込むことで、カエルの筋肉を収縮させてその程度を測定して喜んでいる基礎科学者、あるいは医学校で医学生に基礎科学を教えて地味な基礎作りをしている教師から、社会の問題に積極的にかかわる学問へと作り変えていった。
しかし、この産業疲労についての生理学のピークは短かった。第一次大戦中と戦後のごく短い時期がすぎると、この概念は急速に変化し、生理学の関与は少なくなった。これは、国家の影響の有無が大きい。第一次世界大戦中は、戦場での戦闘もさることながら、銃後での生産の効率を上げることは国家の存亡にかかわる問題であり、国家が労働現場に直接かかわろうとしており、生理学者たちの、概念的には必ずしも厳密でない当時の生理学が、労働を科学的に管理する鍵を握っているということ、生理学者たちの主張を国家が認めてバックアップするというメカニズムで、生理学は産業疲労の問題の中核をしめた。この過程で作られた国家の委員会には著名な生理学者たちが名を連ね、この委員会は戦後も継続して存在した。しかし、戦時経済の時期が終わって国家が直接労働現場を管理することに消極的になると、生理学者の研究のフォーカスも変化する。まず、彼らの研究はより専門的・テクニカルになっていく。これは、産業疲労の研究が華やかなりし時でも、実はその基本的な生理的なメカニズムは明らかになっていなかったことを考えると、ある意味で自然な流れでもある。そして、国家の後ろ盾を失った生理学者たちは、かつての社会改革・労働者保護の色合いが強い立場から、むしろ経営側に寄り添うような立場をとるようになる。