江戸の堕胎と生命倫理

同じく新着雑誌から、江戸時代の大阪における堕胎や産科学を論じた論文を読む。文献は、内野花「近世大阪における回生術と産科学」『日本医史学雑誌』55(2009), 31-42. この雑誌の今号は、力作の論文が揃っている。

徳川時代の出産と生殖行動は、ジェンダー論と人口学と医学・身体の歴史が交差する領域で、優れた研究が数多く出ている。ポイントになるのは、堕胎や間引きである。私が門外漢として漠然と理解している構図は、堕胎にたいして寛容な社会から、厳しい社会に変化したというものである。例えば、落合恵美子は、19世紀初めの時期を「堕胎や子殺しを戒める言説が増殖した」時期であるとしている。かつては、「七歳までは神のうち」といわれ、胎児はもちろんごく幼い子供も尊重するべき生命として受け入れられていなかったのが、徳川社会の変化にともなって、現代の我々に近い観念になってきたということかなという印象を持っている。(このあたり、専門の研究者の間で、ベースになっている定説とクロノロジーを知りません。もし、そういったものがありましたら、文献を教えてください。)

この論文は、まだ荒削りな箇所が多いけれども、とても面白いデータセット(という言い方をする)を提供している。井原西鶴の作品を年代順に並べると、捨て子や堕胎についての態度の変化が見られるというのだ。1682年に刊行された『好色一代男』では、子供を捨てることに対する罪悪の観念は薄く、その時期の別の作品では、堕胎薬のちらしをこっけいに書いている。しかし、1686年の『好色一代女』では、蓮の葉笠をかぶった子供の亡霊が、腰から下を血だらけにして立って並び、むごいかかさまと泣き叫ぶ有様が描かれていて、堕胎や捨て子・子殺しに対する態度が非寛容なものになっているという。この変化は、落合がいう「言説の増殖」よりも、一世紀も早いし、しばしば日本の産科学が操作的な近代性を獲得した契機であるといわれる賀川流の一連の新技術開発よりも早い。

これはごく小さな、また限定された価値しか持たないデータセットで、論文で著者が提供している説明は、仮説の域を出ていないものだけれども、これはぜひとも憶えておこう。