冷たい社会と熱い社会

必要があって、レヴィ=ストロースが未開社会と近代社会の違いを「冷たい社会と熱い社会」という概念で語っている文章を読む。文献は、もとは言えばフランスのTVのインタヴューをおこしたもので、ジョルジェ・シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』多田智満子訳(東京:みすず書房、1970)

もっとも直接関係がある章は「時計と蒸気機関」と題された章だが、その一つ前の、「『未開人』と『文明人』」という章も関係がある。「『未開人』と『文明人』」では、狩猟採集段階にあったいわゆる未開社会では、人々は言語は持っていたが文字によって記録し文化を蓄積するすべを持っていなかった。一万年前に西アジアで農業革命が起きたときも人間は文字を持っていなかった。農耕と牧畜の開始という人類史上最大の大事業は、文字なしで成し遂げられたのである。文字が発明されるのには、社会が階級化され、主人と奴隷という関係が発生し、人口のかなりの部分が搾取されるような社会が誕生してからであるという。文字は階級化や財産の占有に不可欠な権力の道具・記録として発生したという。

この部分も面白かったけれども、やはり未開社会と近代社会を「冷たい社会」「熱い社会」と概念化した部分が面白かった。前者はエネルギーの損耗が少なく、エントロピーをごくわずかしか発生させず、いつまでも同じ動きを繰り返すことができる、時計のような「工学的機械」にたとえられる。後者は、機械でいうと「熱力学的機械」、たとえば蒸気機関のようなもので、多くのエネルギーを用いて大きな働きをし、大きなエントロピーを発生させる。近代社会を蒸気機関にたとえるのは、もちろん蒸気機関そのものを使っているからでもあるが、それ以上に、近代社会は主人と奴隷、領主と農奴、資本家とプロレタリアートのような階級の差に立脚しているからである。この階級の差をもちいて、近代社会は作動している。それは蒸気機関などの熱力学的機械が、ボイラーとコンプレッサーの二つの部分の温度の違いに基づいて動いているのと同じである。熱力学的社会は不均衡によって作用する。また、それと同時に、その不均衡を利用して、文化としての「秩序」も作り出している。

このくだりが、どの程度まで比喩なのか、それとも、筋が通ったモデル化にたえるのか、それとも『知の欺瞞』の著者が憤激しそうな科学用語の誤用をちりばめた文章なのか、よくわからない。数多くの経済学者や人類学者がモデル化を試みたのではないかと推察するけれども、階級の差と温度差がパラレルだというのは、「比喩っぽい」気がする。ちょっと考えてみようと思っているのは、未開社会から農業革命がおきて都市が発生した時期に、はしかや天然痘といったヒトからヒトに感染する急性感染症が誕生したということに、エネルギーとエントロピーの議論をからめることができないかという可能性である。(これは、過去数年間、感染係数しか考えることができなかった私としては、長足の進歩だと思う。いや、もちろん、やっと人並みになれそうだということだけど 笑)

私のアイデアは、それはそれでいいとして、レヴィ=ストロースの概念が、かりにただの比喩だとしても、それを表現する手段が、なんと的確で、インスピレーションをかきたててくれる比喩なんだろう。