エチオピアの発疹チフス

必要があって、19世紀から20世紀のエチオピアの発疹チフスについての論文を読む。文献は、Pankhurst, Richard, “Some Notes for the History of Typhus in Ethiopia”, Medical History, 20(1976), 384-393.

エチオピアの発疹チフスで、最初の信頼できる報告は1866年の6月のものである。タナ湖の近くのコラータ (Qurata)に野営していた王の軍隊で発生した。この軍隊は、コレラによる大きな被害を受けており、教会には処理しきれない死体の山が積まれていく状態だったが、それに追い討ちをかけるように発疹チフスと天然痘が発生した。王は、当時の習慣に従って、高地に移動して難を避けようとしたという。1870年代には、オペラ『アイーダ』の筋書きにもあるような話だけれども(笑)、スーダンから侵入したエジプト軍の兵士たちに発疹チフスが発生した。1936年から41年にかけて、エチオピアはファシスト政権のイタリアの侵攻を受けたが、イタリア人たちは発疹チフスを非常に恐れて消毒で対処しようとしたほか、厳格な人種隔離政策を行った。現地人と白人の生活圏は厳格に区別され、居住地帯はもちろん、職場、商店、学校、交通機関などにおいても、それぞれ別の生活圏を守るような指示が出た。現地人は、都市部から追放されて、地方部へと移住させられたという。

最初の「記録された」発疹チフスは1866年。日本もそのくらいと言ってよい。これが、臨床的に見分けることができるようになったからなのか、それともこの病気そのものがこの時期に伝播したのかという話は、もちろん難しい。 

でも、難しいと言ってばかりいないで、たまには、旗色を鮮明にして、危険を承知で、正面から論じてみようか。