旧石器捏造と邪馬台国

必要があって、日本史の古いところについての概説書を読む。文献は、白石太一郎編『日本の時代史1 倭国誕生』(東京:吉川弘文館、2002)

旧石器時代から縄文・弥生時代を経て、邪馬台国の時代にいたるまでの日本史の概説で、私が高校の教科書で習っておぼろげながらに憶えていることは、だいたい否定されているか、かなりの留保がつけられているので、感心しながら読んだ。(稲作が弥生時代に始まったとか、その手のことまで留保が付くようになったのには驚いた。)記述もくっきりとしていて分かりやすい。

この本の冒頭は、2000年の毎日新聞のスクープで明らかにされた、藤村新一による旧石器時代の遺跡の捏造に関する反省と弁解で始まっている。私自身、この事件は、本当に月並みな言い方で申し訳ないけれども、「信じられない」思いで見ていた。この本の編者で、全体像を描く重要な章を書いている白石も、反省半分、弁解半分の、力がこもった実質的な文章を書いていて、その部分は門外漢の私が読んでもちょっと胸を打つものがあった。「他者の成果を信じることから研究が始まる」とか、「人間性悪説に立って捏造を防止する組織的なシステムなど存在しない」というのは、説得力がある部分もあるし、ずたずたにされた学者の悲痛な叫びといえる。「日本考古学がその失った信頼を回復するためには、すべての研究者が自己の新説や仮説について充分責任を負える発言を心がける必要があろう」という言葉はきっと真摯なものだろう。

けれども、全体としては悲喜劇といえる雰囲気が漂う。藤村の捏造事件の記憶をすぐに葬って、ビジネス・アズ・ユージュアルにできるだけ早く戻ろうという姿勢すら見える。白石自身、邪馬台国がどこにあったかという論争が絶えない問題について、旗色を鮮明にした仮説(彼はいわゆる「大和」説である)を大展開し、卑弥呼やその後継者の墓のありかまで推察している。偉い学者が書いている文章だから、もちろん説得力はある。しかし、日本のアカデミズム史上、おそらく最大の捏造事件の直後に書かれたものとしては、どうもしっくりこない。白石が卑弥呼の墓であると推定する古墳を掘ったら何が見つかるかに、この仮説の運命がかかることになるという状況が、どこかで見たことがあるような気がするからだろう。考古学のあり方に批判的な人なら、捏造事件をめぐって表明された反省は茶番だというかもしれないけれども、私は、そういうわけではないような気がする。