中世ヨーロッパの略奪


必要があって、中世ヨーロッパの戦場における略奪を論じた研究書を読む。文献は、山内進『掠奪の法観念史 中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』(東京:岩波書店、1993)

近代以前の、権力が分散しており、自分の身は自力で守るという自力救済の原理が機能していたときには、人々は実力を頼りとし、生(なま)の暴力に訴えた。これは一つの習俗であり、不当でも不法でもなかった。掠奪を当然とする習俗、共通感覚があり、それらは合法的と理解されており、神学・教会法学・ローマ法学、国際法学もこれを合法的と認めていた。法的正義は、習俗、慣習、分散的権力を担う人々の共通感覚の中にあったのである。これは、制定法以前の「法観念」と呼ぶにふさわしいものであった。ルターは、領国が戦争したときに、臣下はこの戦いに従軍し、敵を征服するまで安んじて戦争の慣わしどおりに殺戮し強奪し放火しあらゆる災害を敵に加えることが、「キリスト教的であり、愛の行為である」と書いているという。

30年戦争では、ドイツ全体で人口が1/3から1/4になった。ヴュルテンブルクでは34万人の人口が4万8000人、つまり1/7になったという。これは、「軍事革命」を通じて兵士の数も増えていたということもあったが、暴力が兵士相互だけでなく、市民、農民、そして家・畑、その他もろもろの財産に及んだからである。そして、この兵士たちは、戦術の革新により多くの歩兵が必要になったことと、いまだ国民から愛国心に基づいて志願兵を取ることなど不可能であったことから、傭兵に頼っていた。この傭兵たちは、貧乏で社会のあぶれものが多く、「ごろつき」と言ってよい、荒くれものであった。また、国際的に集められた。イングランドのヘンリー八世が1544-45年にフランスを侵攻したときには、ウェールズ人、スコットランド人、スペイン、ガスコーニュ、ポルトガル、イタリア、アルバニア、ギリシア、トルコ、韃靼、ドイツ、ブルゴーニュ、フランドルから兵が集められた。

この傭兵の周りには、兵士たちの妻、子供、召使、そして売春婦や商人たちがいた。これらの取り巻きの数は非常に多く、1617年のある記述では、3000人のドイツ兵に4000人もの売春婦・少年、「みだらな馬車」(笑)がいた。商人たちは、兵士たちに食料などを売って供給しただけではなく、兵士たちが掠奪した品物を買い取っていた。マルク・ブロックがいうように、「暴力は、経済の中に入り込んでいた」のである。

この掠奪を支えていた概念は、「フェーデ」(私闘)であった。これは、自己自身の生命・財産・名誉ならびに、自己の親族などを守るために、実力を持って戦うことを当然としていた概念であった。

画像は、ジャック・カロ「戦争の悲惨」より。