幕末の村医者

必要があって、幕末の村医者を論じた書物を読む。文献は、菅野則子『江戸の村医者 本田覚庵・定年父子の日記にみる』(東京:新日本出版社、2003)

本田覚庵は、下谷保村(現在の国立市谷保)の地主・豪農で、18世紀の後半頃から医業を営んできた本田家の養子となった人物である。下谷保というのは、1856年の人別改によれば、戸数は91、人数は455人であった。本田家は、村役人も勤めた、村で唯一の医者の家であった。覚庵は、天保3年6月1日から12月30日までの半年あまり、江戸の麹町の産科の名手(誰かは不明)のもとで修行した。最初は医書を読んだり書写したりしていたが、次第に薬を調合し、先生や先輩について往診したりした。当時覚庵は19歳で、まあ、19歳の若者が江戸で一人で修行しているわけだから、淡い恋もしたらしいし、立ち止まって目を見張るような美人に通りすがって嘆息をしたりもした(笑) 原文は示していないけれども、ここで「嘆息した」というのが、大都会で勉強している19歳の若者らしくて、いいじゃないですか。 一面識もない美人と通りすがったからと言って「嘆息する」なんて、青春そのものですね~(笑)

さて、父親が急死して谷保に帰った覚庵は、旺盛な診療活動を始める。1838年の1月の診療記録には、一ヶ月で63人、のべ181人に「配剤」(薬を与えた)ことが記されている。このうち女性は14人で、産科としても活躍しているが、むしろGPとしての活躍である。また、1860年の日記では、覚庵と、覚庵のもとで修行している2-3名の代診とともに、毎日のように往診している。キャッチメントは、ごく近隣から、府中、国分寺、立川、八王子まで広がっているという。本田家は豪農で地主であったから、農業・地代収入もかなりあって、薬礼はあまり多くない、というか、金額でいうと、収入の1%にも満たない、微々たるものであった。