売春と麻薬中毒者とエイズ

必要があって、AIDSの疫学を一般向けに語った書物を読む。文献は、Pisani, Elizabeth, The Wisdom of Whores: Bureaucracies, Brothels and the Business of AIDS (New York: W.W. Norton & Company, 2008).

著者はジャーナリストを経て、ロンドンで疫学を学び、国連のAIDS研究の機関やアジア各国でAIDS対策の仕事をしていた。ジャーナリズムの分かりやすくヴィヴィッドな書き口で、実際に調査した売春やセックスや麻薬中毒者のアンダーワールドを素材に、話題の病気の疫学の専門的な知識を語るわけだから、それはそれは面白い。

著者の視点は、まさに疫学者のもので、いま東南アジアや東アジア(中国でも仕事をしていた)でAIDSを広めているのは、セックスと麻薬中毒者の注射針であるという、きわめて即物的なものである。一方で、一般に人文社会科学者や臨床・基礎医学のメインストリームに人気がある視点にはあまり興味がない。それどころか、問題の本質を捉えていない偽善的なものであるという敵意に満ちた書き方をしている。例えば、AIDSは国際間の格差や貧困や男女の不平等の問題であるという、国連の社会科学系のインテリに人気がありそうな視点は、反対例を挙げて論駁さえしている。同じようにHIV/AIDSの患者に治療を与えることというのも、非常に人気があるが、無条件で最善の方法というわけではないと主張しているし、ジェンダーの視点で AIDSを論じる人々には人気がある(だろう)「無垢な女性が男性から感染する」というモデルも、実態に合わないと批判している。患者団体の活動も、アメリカのAIDS流行の初期に成果を挙げて脚光を浴びたが、これを重視する仕組みが常に有効なわけではないとしている。これらはすべて専門家の貴重な意見で、しかもユーモアのセンスとともに語られているから、楽しく読める。授業で紹介するものもあるかもしれない。

しかし、正直言って、この態度の背後には、問題をできるだけ狭く定義しようとするエピデミオロジストが狭隘で排他的・攻撃的になっている事情があるという印象を免れない。私自身、歴史上の疾患についてエピデミオロジストの真似をして論文を書いたりすることもあるから、気をつけないと。

否定的なことを書いたけれども、この本は、つい、不平等だとかジェンダーだとか患者の当事者主義だとか、人気があって汎用性がある概念装置だけで考えたりしがちな、人文社会科学系のAIDS研究者が、虚心坦懐に読まなければならない本だと思う。その意味で、私は読んでおいてよかったし、きっと多くの人に読まれなければならないのだろうな。

もちろん、面白いデータや洞察が満載。スワジランドのまじめな公務員と、オーストラリアの麻薬ジャンキーと較べると、前者は後者の40倍HIVに感染しやすいとか、すべての人間が、自分と同一の年齢の人間としかセックスしなければ、AIDSの流行は消滅するだとか(なるほど・・・) 一番笑ったのは、長期にわたって安定したパートナーを同時に複数持っている男性Aと、短期間に次から次へとパートナーを変えるけれども付き合っている間は一人の女性に貞節な男性Bとでは、どちらがHIVを広めやすいか、という問題だった。

・・・思いついてしまったから、これをクイズにしましょうか(笑) 

男性Aは一度に5人の女性と5年間安定して付き合っていて、男性Bは、一度に1人ずつだけど、その一人とは1年間しか続かず、結局5年間の間に5人の女性と付き合ったことになったとします。どちらがHIVを広めやすいでしょうか? (これは、クイズとして、必ずしもフェアではありませんが・・・)