必要があって、イングランドの結核の社会史の書物を読みなおす。文献は、Bryder, Linda, Below the Magic Mountain: A Social History of Tuberculosis in Twentieth-Century Britain (Oxford: Clarendon Press, 1988).
結核の歴史というのは多様なアプローチが可能な主題だが、この書物は、19世紀末から20世紀前半にかけて、国家、地方自治体、そして民間団体が積極的にかかわった結核行政・結核対策を骨格にして議論を組み立て、その肉付けに、サナトリウムの経験、治療法をめぐる論争、患者の視点からみた歴史などを使っている、非常に手堅い社会史研究の書物。この書物が出た当時は、結核の歴史というと、スーザン・ソンタグに触発された、文学や芸術などを素材にしたロマンティックな結核の歴史の研究が主流だったが、新しい問題の立て方が可能であることを示した書物ということになるのだろうか。
一番インパクトがあるのは、ルネ・デュボスの議論を批判したところだろう。欧米各国、そして日本でも、「結核対策」を目的にした団体が作られ、結核予防や治療が国家の政策になるのは、1890年代から1910年代である。フランスは1891年、ドイツが1895年、イギリスが1898年に、それぞれ鍵になる団体が作られ、それぞれ規模や方向性こそ違うが、国家をあげた結核対策が始まる。(ちなみに日本は1908年)このタイミングをどう説明するかというのが、ちょっと難しい。まず、結核の死亡率は、少なくともイギリスでは1860年代から継続的に下降していて、社会問題・健康問題としての規模は小さくなっている。結核問題は、世紀転換期の国家が直面したというより、「発見した」というのがより的確である。
この「発見」に貢献したとされるのが、医学史の教科書には必ず登場する劇的なエピソードである、ロベルト・コッホによる結核菌の発見(1882年)である。デュボスは、この病原体の発見が、結核対策を各国で離陸させるのに大きな影響を持ったと主張している。当時、死因の上位にあった結核という病気は遺伝するのではなくて感染するということが確かめられ、また、その病原体が確実に分かったわけだから、これが何らかの影響をもたらさないわけがないが、ブライダーは、別の原因に着目する。彼女は、帝国主義的な競争が激化する中で、国民の健康を確保することが競争を勝ち抜く重要な政策となり、そのために国家の「効率」が問題にされるようになったことが、より重要な原因であるという。この主張はおそらく正しいが、もう少しエレガントに提示できるだろう。
彼女が引用するイギリスの結核対策の主張を読むと、結核が病原体を持つ感染症であるということには、必ずしも強調が置かれていない。むしろ、結核の原因として、性の放縦やアルコール中毒、あるいはうつや精神病など、道徳的な弱さが強調されているのが目につく。これは、イギリスの結核対策の中心であった全国結核予防協会が、中産階級を中心として労働者の道徳的な改善の流れの中で結核対策を構想したしたことと関係がある。そこでは、結核対策は、労働者改善のイデオロギーによって駆動されてきた。労働者が自己の欲望を律することができないのを改善し、生活を規律することができるようにする目標と一致する形で、結核対策が決まってきた。この場合、結核は自己責任の病気になり、感染症、それも飛沫感染する病気が潜在的に持つ「ランダムさ」の強調は薄らぐ。また、何よりも、貧困に由来する栄養不良や不健康によって発病の可能性が上がるという、「貧困のバロメーター」という性格は消し去られ、怠惰・悪徳・不道徳の病気となる。