大平原の砂嵐


必要があって、アメリカの環境史の指導的な研究者が、西部の大平原の Dust Bowl (この間オーストラリアであった砂嵐のようなものだろうか)についての歴史家たちの解釈の違いを素材にして、歴史にとって「物語」とは何かという問題に深い思索をめぐらせた論文を読む。文献は、Cronon, William, “A Place for Stories: Nature, History and Narrative”, Journal of American History, 79(1992), 1347-1376. これは、いわゆるポストモダニズムの挑戦に対するプロの歴史学者の応答としては、私が読んだ中では最良のものだった。

素材として使われているのは、アメリカ西部に広がっている乾燥した大平原 (大文字でPlainsというらしい)の植民・開発と、その地域を1930年代に襲って大被害を出したダストストームについて、歴史家たちが異なった「物語り」をしていることである。大きく分けて、大平原の開発について、上昇派・楽観派と呼べる史観と、下降派・悲劇派と呼ぶことができる二つに分かれる。前者は、大平原の過酷な自然条件だからこそ、開拓者たちの努力と創意工夫の才能が発揮された、また、それが過酷であるほど、そこに定住しようとする人間の闘争は英雄的なものになるとしている。これは、大平原に移民した人々を、「闘争と進歩」の大きな物語に位置づけるものであった。一方、悲劇派のほうは、開拓者たちの勇気と根性をたたえつつも、開拓者たちは最終的に自らを欺いていたのだとする。この地域の気候は周期的に変わり、定住に適した期間とそうでない期間があるのに、一律の「進歩」の時間を周期の時間に無理におしつけて、よい期間だけを「平常」だとみなしたのが、そもそもの発端であった。これを解決できるのは、専門的な科学に基づいた政府の計画であり、これこそまさにニューディールが目指していた国家による管理であった。アメリカの個人主義が悲惨な結果に自らを追い込み、科学と国家がそれを救い上げるというナラティヴである。この、同時代の思想が「ダストボウル」と環境史の異なった物語に影響を与え、それを二分するというパターンは、1970年代にも繰り返され、そこではレーガン政権前夜の資本主義・市場主義とその批判という図柄をとった。

この、ある特定の主題についての環境史のヒストリオグラフィの鋭利なまとめの上に立って、ポストモダニズムの挑戦を真摯に受け止めた最後の1/3くらいの部分が、この論文の真骨頂だろう。 Commitment to teleology and narrative gives environmental history its moral centre. If our goal is to tell tales that make the past meaningful, then we cannot escape struggling over the values that define what meaning is. (1370)

ちなみに、日本語版の Wiki でも「ダストボウル」を見ると、すさまじい写真があったので、画像に拝借しました。