武見太郎伝

必要があって、武見太郎の伝記を読む。文献は、三輪和雄『猛医の時代 武見太郎の生涯』(東京:文芸春秋社、1990)

武見太郎は1904年に生まれて1983年に没した。彼を有名にしているのは、1957年から82年の長きにわたって日本医師会の会長を務め、厚生(労働)省と医師会が対立し、自民党がその間を斡旋するという、現在にいたる日本の医療の仕組みを作り上げるのに大きな影響を果たしたことである。武見が医師会の会長になっていなかったら、日本の医療は確実に違う道を取っていただろう。

医師会の会長としての厚生官僚や厚生大臣との交渉(というか、ありていに言えば、恫喝と喧嘩)の部分が一番読み応えがある部分だけれども、それ以前の武見の人生も詳しく書いてあって、実は私には後者が面白かった。慶應の医学部の医局を飛び出して一開業医になることを選んだ武見を、戦後の医師会の執行部に入れようというのは、まさに誰にとっても青天の霹靂の大抜擢であった。それまでは、武見は、大学教授や医師会の公職などの有力なポストに何もついていない、流行している開業医にすぎなかった。

それなら何が武見を医師会の要職に押し上げたかというと、これはこの本を読んだ限りでの私の印象に過ぎないけれども、武見の患者に政治家が多かったことだと思う。武見は戦前に研究員だった理研の関係で岩波系の知識人・文化人にも知己を得ていたが、吉田茂をはじめ、多くの政治家の主治医でもあった。そして、医師としての親密さを利用して、終戦直後の政治家同士の交渉の使い走りをしたりして、政治家と密接な関係を持っていた。この、医師―患者関係をベースにした個人的な関係で政治家と付き合い、政治家の「閨閥」に連なっていたことが、医師会幹部への大抜擢の背景であろう。医師会から見ると、医療制度の根幹が形成されつつある時期に、医師会の意向を政治家に伝えることができるホープと写ったのであろう。このような、個人的なコネクションが重要だったことは、当時の医療についての立法や制度設計について、何かを教えてくれるのかな。これは、近世のヨーロッパで重要だった「宮廷医」の役割と似ているのだろうか。

トリヴィアを一つ。岩波茂雄が自宅に呼んだ文化人にコイの料理を出すのが好きだったので、岩波系の知識人たちは、みなジストマをわずらっていたとのこと。