水俣病

必要があって、水俣病についての書物に何冊か目を通す。文献は、原田正純水俣病』『環境と人体』『水俣が映す世界』『水俣学講義』など。著者は熊本大学の医学部の研究者として胎児性水俣病を発見・研究した当事者で、その後も水俣病に深くかかわり、何冊もの優れた書物を書いている。

水俣病についての書物は以前にも読んでいたけれども、今回初めて知ったポイントがあるから、それを書く。いわゆる「新潟水俣病」の役割である。有名な猫の狂い死にから始まる水俣の悲劇が明らかにされ、100人あまりの患者を同定し、胎児性水俣病のなぞも解き、有機水銀中毒の悲惨さを解明し、1956年からの水俣病の研究は一段落したと思われていた。そのときに、新潟の阿賀野川流域で、昭和電工の工場からの有機水銀の汚染による中毒のニュースが入った。水俣の患者は受診によって発見されたのに対し、新潟の中毒は、大規模疫学的調査によって、汚染されている可能性がある地域の住民すべてを対象にして健診を行うという方法で患者を発見した。調査は何回かにわたって行われたが、それは数万人に及んだという。その結果、もともとの水俣病のような急性で劇症のものよりもはるかに軽い症状の水銀中毒の例が大量に掘り起こされてきた。健診は、これまでとは違うタイプの患者をあぶりだしたのである。

これを受けて、熊本大学でも、水俣病の病像の全面的・徹底的な見直しが行われた。新潟の健診が明らかにしたような患者、つまり急性劇症ではない患者を含めて水俣病ととらえる疾病概念を作りなおしたのである。この方向は、「不顕性の水俣病」という概念が提出されるなど、行き着くところまで行ったといってよい。これは、水銀への被曝があり、体内に蓄積されているにもかかわらず、「症状が顕在化しない」水俣病である。1950年代に明らかにされて日本と世界に衝撃を与えた、中枢神経の壊滅的な破壊による水俣病との巨大な懸隔は明らかであった。

そして、急性劇症だけでなく、慢性軽症の水俣病についても国とチッソによる補償が求められた事は、「どこまでが水俣病か」という線引きをしなければならないという、おそらく原理的に定めることが不可能な問題を発生させた。また、急性劇症の患者と慢性・軽症の患者は発生の地域が違い、それらの地域は漁民と農民という形で、もともと相互に差別と敵意を抱いていた地域であった。それを背景にして、軽症患者に対する重症患者の側からの露骨な敵意をあぶりだした。有機水銀で汚染された魚を多食して凄惨な被害を受けたにもかかわらず、農民たちからは白眼視され、「病になって金を儲けた」とののしられてきた漁民たちは、農村のものが水俣病だと言い出したことに対して、「芋を食って水俣病になったと言って金をもらおうとしているのか」とあざ笑い返したという。