必要があって、麻酔の歴史を読む。文献は、Snow, Stephanie J., Operations without Pain: the Practice and Science of Anaesthesia in Victorian Britain (New York: Macmillan, 2006).
麻酔というのは医学の多くの領域にわたって巨大な影響を与えた、19世紀の医学に生じたまぎれもない革命である。麻酔は医学、特に外科の可能性を劇的に広げ、患者に大きく利益した技術である。これまでの医学史は、どうしても麻酔の業績を顕彰する方向で書かれてきた。顕彰するのはいいんだけれども、麻酔がいったん発明されたら、このような疑いもないメリットを持っている技術は、自然に広まっていくと考えた点に、大きな見落としがあるとこの書物は論じている。麻酔技術の初期の流動的な状況を研究して、洗練された視点で分析したのが本書である。とてもいい本で、これで、やっと麻酔の歴史で一回分の授業ができるという気がする。
分析の中心は、ロンドンのGPで、ブロード・ストリートのポンプで何回も記事にしているジョン・スノウ。1844年に、アメリカの歯医者が麻酔のもとで歯を抜く事を考えて実施する。これは当時のアメリカの位置と当時の歯医者のステータスを考えると、二重の意味の辺境で開発されたテクニックである。(我々の感覚で言うと、北朝鮮の獣医が、人間のうつ病に対する最新の抗うつ剤を開発したという感じだろう。)1846年の10月にはボストンの歯医者のモートンがエーテルを用いることを実験すると、その都市の12月にはロンドンでもパリでもエーテルを用いた外科手術が行われる。ストウはすぐにそれを実験してロンドンで実用化する。一年後の1847年の11月にはエディバラの医学校のシンプソンが、クロロホルムという違う薬品を使って出産を行い、これもすぐに追試される。クロロホルムは、わずか5年後の1853年の7月にはヴィクトリア女王の出産に用いられるから、本当にあっという間に広まったといえる。こう早く話が進んでしまうと、たしかに「問題なく進んだ」かのように見えてしまうが、そこに繊細なくさびを打ち込んだのが本書である。
読み応えがあるのは、スノウとシンプソンの違い、つまりエーテルとクロロホルムの違いである。両者は大きく異なった文脈をつくりだしていた。スノウが実用化したエーテルは、動物実験を使い、吸入する量を厳密に測定して標準化し、エーテルの麻酔作用についても、第一段階から第四段階まで、麻酔の効き方を段階ごとに標準化している、実験科学の方法であった。しかし、エーテルの吸入は時間がかかって不快感をともない、また、患者は興奮したり笑ったり手足を動かしたりして、その効き目が不安定であった。一方で、クロロホルムは、すぐに意識を失った状態になるが、その方法はハンカチにしみ込ませて患者の口元を覆うという、エレガントかもしれないけれども定量的な厳密性は望むことができないものであり、なによりも、それは危険であり、用いられ始めて一年足らずで、すぐに患者が死亡する事故が起きるようになった。つまり、19世紀半ばの世界には、二つの麻酔があり、リスクが高いけれども、効力があって医者のシナリオの中にうまくあてはまるクロロホルムと、リスクが低くて科学的な処方ができるけれども、役に立たないことがあるエーテルの二種類があったことになる。