三島由紀夫『近代能楽集』

今日は無駄話。

恥ずかしながら、私は能をきちんと観たことがない日本人で、「ニホンに来たからにはノウを観たい」と外国人に言われて困ることが時々ある。

北米の学者なら、銀座四丁目から歌舞伎座に連れて行って、英語の説明があるヘッドセットを押し付けてなんでもいいからカブキを見せ、その後で、この先のツキジには有名なフィッシュマーケットがあると言ってやると、大いに満足する。彼らはこれを”Do Ginza” という。Do Ginza の大枠の中では、カブキとノウの区別はつかないか、区別がついたとしても、それほど重要でない。

しかし、ヨーロッパの小生意気なインテリだと、カブキは大衆芸能で、日本の精神文化の真髄はノウにあると、妙なことを吹き込まれているから、カブキではなくてノウを見たがる。私が、国立能楽堂なんていったことがないし、ノウの見方なんて知らないというと、彼らは失望と軽蔑の色を隠さない。

ヨーロッパの小生意気なインテリには、勝手に失望させたり軽蔑させたりしておけばいいんだけど、しばらく前に「現代能楽集」と銘打たれた現代劇を見て面白かったので、ちょっと考えを変えた。三島が「近代能楽集」といわれる一群の戯曲を書いていることは、いくら能を見たことがない無知な私でもさすがに知っている。「現代能楽集」は見たから、そこから三島の「近代能楽集」に進み、さらに「近世能楽集」、「中世能楽集」、「古代能楽集」、「先史能楽集」と進めば、少なくとも歴史的に言えば、能は大体押さえたことになる。そうしたら、”Do Noh” したことになって、ヨーロッパの小生意気なインテリにも、”I have recently done Noh” と誇らしげに言うことができるではないか。問題は、Do Ginza という概念を持たない彼らが、Do Noh という概念を分かってくれるかどうかだけど、彼らがいぶかしそうな顔をしたら、今度はこちらが失望と軽蔑を隠さなければいいわけだから、大きな問題ではないし、それでこそ「対等な日欧関係」といえる。  

というわけで(笑)、三島の『近代能楽集』を読む。恥ずかしながら、この一連の名作をこれまで読んでいなかったのは、確かに失望と軽蔑に値する(笑)・・・いや、蓮舫議員風にいうと、これは、「笑って終わる話しでは、実はないんですね」のかな。