沖縄の疾病

必要があって、沖縄の疾病の歴史を読む。文献は、稲福盛輝『沖縄疾病史』(東京:第一書房、1995)

沖縄の疾病というのはとても面白い。民俗学の視点からもきっと面白いのだろうけれども、疫学の視点からも、重要な洞察を提供してくれる。私は自分でリサーチしたことはないが、地理学者の小林茂さんのお仕事を何回か伺ったことがあって、とても興奮したし、一度か二度、ここでも記事にしたと思う。

琉球については、おそらく、二つの大きな感染症のシステムの周縁が重なるところに位置していたのだと思う。日本の感染症のシステムから見たときの周縁というだけでなく、中国・台湾などのシステムの周縁でもあるのだろう。たとえば船が難破して中国に漂流し、乗組員がそこで痘瘡にかかって帰国して沖縄で痘瘡を流行させてしまうなどという事態は、それが中国システムの周縁であることを強く印象付ける。しかし、それより面白いのは、麻疹の流行で、沖縄諸島の麻疹の流行の年代を見ると、日本の一部でもあり、明らかに日本とは違うシステムの一部でもあること、つまり二つのシステムの二重の周縁であることが分かる。そして、おそらくこれと関係あるのだけれども、八重山、宮古、慶良間などの列島が、関係があると同時に、それぞれ別のシステムに属して無関係であるかのように振舞うことがある。

江戸時代の麻疹は、一度流行があると、日本中がひとつのシステムになったかのように、全国津々浦々まで流行が起きる感染症だったといっていい。津軽はもちろん、蝦夷地ですら、全国の麻疹の流行にかなりの程度まで従っている。しかし、沖縄では、麻疹の流行は、日本のシステムに従っている年と、全く従っていない年が分かれる。たとえば、1753年の宮古島の麻疹の大流行は、これは全国の流行にしたがっている。この年には、蝦夷でも麻疹があったし、翌年には津軽でもあったから、「北から南まで」という表現そのものである。しかし、これは、沖縄本島を飛ばして宮古島に行ったのか、沖縄本島では麻疹の流行は記録されていない。一方、1810年から16年の沖縄本島・宮古などで麻疹の流行した時期には、本土では麻疹の流行は記録されていない。1834年から41年の宮古・八重山全体をつつんだ流行は、おそらく1835年の本土の流行と関係がある。1862年の有名な文久2年の大流行で、日本中が麻疹の波に飲み込まれたときには、沖縄本島はその波の中に飲み込まれて麻疹が大いに流行したが、その前の20年ほどの間に何回か麻疹の侵入を受けていた宮古・八重山では流行しなかった。