『予防医学という青い鳥』

予防医学に携わった医師が『健康文化』という雑誌に連載したものをまとめた書物。好事家的な医学史にも二種類あって、ひとつが日本を対象にして自分が住んでいる地域の古文書などを読んだりする人、もうひとつは、専門にしている医学の診療科や分野におけるエポック・メーキングな現象に興味がある人で、こちらは、当然西洋の偉大な医者たちが対象になる。この書物は後者にあたる。

ゼンメルヴァイスの産褥熱は死体を解剖したあとの手を洗わない医者から妊婦に感染する医原病だという説を聞いたキール大学のミカエリスは追試を行ってその説が正しいと納得すると、これまで自分が取り扱った産褥熱患者に責任を感じて自殺したという。当のゼンメルヴァイスは、自分の説がなかなか認められないと、学会誌に公開質問状を出し、手を消毒しないで出産に立ち会う医者は殺人鬼であるという手紙を送り、路上でパンフレットを配り演説をして、とうとう発狂して精神病院に入院して死んだ。なお、ゼンメルワイスが1861年に出版した論文の抄訳があって、これは比較的珍しいマテリアル。考えてみたら、私自身もこの論文を読んだことはない。

脚気をめぐる高木兼寛森鴎外の論争は、最近は中学生の教科書にも出るほど有名になった。明治27年から28年の日清戦争において、陸軍の戦死1270人に対し、脚気による死亡は約4000人であり、患者はその数倍いた。海軍は高木の提案に沿って麦を食べさせていたから脚気はほとんど出なかった。陸軍の森は、兵站部で直接の責任者であった。戦争の途中、脚気の多発を憂慮した軍医部長の山崎は、米と麦の混合を提案したが、軍医総監の石黒が許可しなかった。ひきつづく台湾での戦いにおいて、土岐は独断で麦飯をくばって石黒を激怒させた。しかし、土岐は、まなじりを決して石黒に向かって、「小人(=森鴎外のことをさす)が自分の陋見に執着し、他人の偉勲(=高木の発見をさす)を嫉妬するあまりの挙動により、貴官(=石黒)が惑わされている」といったという。かなり手厳しいが、鴎外の言動はたしかにそう見えたのだろう。人生の一面においては軍の行政官として歩まなければならなかった鴎外が、実験科学に対して持っていた憧れは人一倍強かったという印象を私は持っているけれども、実験科学をバイパスし、単一要因の「ちゃちな」疫学的な研究で科学上の大発見をしてしまった高木。しかも、大英帝国の紳士風を吹かせている(ように鷗外には見えた)高木。その高木の発見に対して、鷗外が過剰に批判的・懐疑的になったということだろうか。