シーボルト『江戸参府紀行』

必要があって、シーボルトが長崎-江戸を往復したときにつけていた紀行文を読む。ジーボルト『江戸参府紀行』斎藤信訳(東京:平凡社、1967)これまで、必要な箇所(天然痘と山伏とか住民の梅毒とか)しか拾い読みしたことがなくて、落ち着いて読むのははじめて。

読み出して、その精緻な記述に驚いた。言い古された言葉だろうけれども「あくなき好奇心」というやつである。自分が目にする色々なこまごまとしたことを、回りの日本人に聞き(きっと、しつこく根掘り葉掘り聞くので回りの日本人は閉口していたに違いない)、それを理解して、正確に書きとめている。その記述は、シーボルトが非常に優れた自然史の学者であることを証明している。特に日本の植物についての記述は豊富で詳細である。

それから、美的な鑑識眼もあるといっていい。植物の美的な側面というのは商業園芸の話じゃないかといわれそうだけれども、植物学と美的な園芸学というのは、少なくとも歴史的には、現在の植物学者が望んでいるほどには隔たってはいない。シーボルトが山の中で目をつける植物の例を挙げると、ハナイカダ、クロモジ、ハンショウヅル・・・ いわゆる「茶花」になるものばかりである。これは、江戸日本の観賞植物を見て、目が鍛えられたのかな。 

貴族意識や階級意識は鼻につくけれども、ある種の日本人の行動様式に対して私たちが持つにいたった嫌悪感と同じものが表明されている。江戸でであった「偽坊主」を、「尊大で無遠慮な人相と卑屈な慇懃さ」と書いて、日本社会のヒエラルキーの中位にいるものが、目下には尊大で目上には卑屈になっていることを見抜き、それを日本社会のひとつの特徴として書いているのは慧眼である。私の身の回りにも時々こういう人はいるし、私自身にもこういう傾向があるから、改めて注意しないと。

富士山ではなく、出羽国鳥海山が日本で一番高い山だと思われていたのは知らなかった。少々驚いた。