三島由紀夫『音楽』

出張の飛行機の中で知人に勧められた三島由紀夫の『音楽』を読む。精神分析医が語る、患者についての物語という形式をとった小説である。精神分析の象徴の意味を知っていて、答えにわざとミスリーディングな象徴を混ぜ込んで分析医を翻弄させることができる、知的で美しく不感症の若い女性が主人公である。きっと、精神分析がいまだに大問題であり、重要な概念装置であるアメリカの学者たちの間では、このミシマの作品は「精神分析のメタナラティヴ」とか言って大いに研究されていることだろう。

いくつか抜粋を。

ヒステリーとは、多分、こうした健全な性的昂奮の身体的状況を純粋培養しようと試みる復讐的な企てなのである。

それは、いわば、聖テレジアに似た聖らかな顔つきで、髪のうしろには円光を背負い、目は軽く閉じ顔をのけぞらせ、大へん美しい唇は薄目にあき(中略)、微笑とも苦痛とのつかぬものが漂って、その手はしっかと瀕死の病人のおそろしく痩せた黄いろい萎えた手を握っていた。(主人公が憎んでいた許婚を献身的に看病してオーガズムを感じる部分を想像して。)

彼女も兄も、二人ながらその愛の不可能を知っていたのである。死か、それともひどい悪ふざけか、この二つに一つがそれを成就させるであろう。(中略)一面から見れば、それはあまりに猥雑であるために、猥雑を通り越して神聖になったひとつの儀式のようなものであった。

酒場の女、兄の情婦、あの下品なガラガラ声の女は、そこで一人の証人に変貌し、世間のあらゆる禁止と非難と挑戦を代弁していた。兄は司祭であり、麗子は無垢な処女の巫女だった。そこで行われようとしていた神聖なしかし怖しい儀式。兄と麗子だけでできるものではなく、どうしても苛酷な目撃者の目によって完成されるのだった。