シーボルト日本植物誌

必要があって、シーボルトの日本植物誌を読む。文献は『シーボルト日本植物誌』大場秀章監修・解説(東京:ちくま学芸文庫、2007)

世界で最初の日本植物の本格的な彩色の図譜で、有名なシーボルトが帰国後の1835年に出版をはじめ、35年後の1870年にやっと出版が終わった。園芸・観賞植物だけ抜き出した選集も出版されたことからもわかるように、日本植物の審美的な価値は高く評価されていた。この図版はヨーロッパの画工によって製作されたが、彼らはシーボルトが持ち帰った下絵をもとにしていた。これらは日本で生きた植物を写生したもので、下絵の多くは川原慶賀などの日本人絵師が描いた。

慶賀らの下絵は水準が高く植物の本質を正確に捉えているものが多かったが、ヨーロッパのボタニカルアートの伝統にのった表現ではなかったため、ヨーロッパの画工たちによって書き換えられ、その結果、不正確になってしまったものもわりと多くあるという。ヨーロッパの画工たちには稚拙に見えても植物学的には正しかった下絵があったのに、それをもちいた完成品が間違ったものになってしまったという事態が、解説を書いている植物学者の大場にはとても残念だったのだろう。ヨーロッパの画工たちによって慶賀の下絵がゆがみを受けた図版になるたびに、それと非常に口惜しそうに嘆く。それを嘆く態度の科学史のヒストリオグラフィ上の是非はとにかく、その口調はときとして学術書に許されている程度を大きく逸脱してしまう。タマアジサイの注釈で、ヨーロッパの画工たちの歪みを「愚の骨頂というべきか」とまで書いている。好古家のエッセイならともかく、英米の博物誌の学術的な出版で、過去の博物誌の間違いを指摘してそれを「愚の骨頂」と表現するのは見たことがないし、おそらくこれからも見ることはないと思う。日本の蘭学研究の事情には暗いが、こういう態度が当たり前なのだろうか。

ボタニカルアートとしての「ふさわしさ」は何か、植物の特徴が表現されるときの文化的な違いは何かという着眼はさすがプロの植物学者の優れたものである。しかし、それを分析するかわりに、それに憤ってしまったのは、<歴史>の学者がとるべき態度ではないし、シーボルトの図譜に対する適切な態度ではない。需要が多い書物で改版の機会もあると思う。せっかくの名著で、丁寧に調べた全体的にきわめて優れた解説なのだから、改版の機会には、少なくとも「愚の骨頂」という学術の品位を貶める表現は削除するべきだと思う。