『感染症は実在しない』

必要があって、岩田健太郎『感染症は実在しない』(京都:北大路書房、2009)を読む。

同じ著者の『麻疹が流行する国で新型インフルエンザはふせげるのか』は、ちょっと失望したけれども、この書物は科学論に基づいて感染症の構成主義的な理解をといた優れた本である。結核やインフルエンザなどを例にとって、病原体が体内に存在するにもかかわらずこてこての結核やインフルエンザの症状を示さない状態を「病気」とするかどうかには、客観的な基準があるわけではなく、恣意的に決めてよいことであると主張する。結核保菌者を予防の対象とするのではなく「潜伏結核」という病名を与えて治療の対象にすることがアメリカで行われており、これは恣意的に作られた病気であるが、それが善であればそれをすればよい、というスタンスが、彼の立場を明快に表している。そして、恣意的に作るときの基準は、検査や治療や政策などによって構成されるという部分も、一般書にしては丁寧に分かりやすく論じられていて、私たちの医学史の研究者の多くが便宜的にとっている考え方にとても近くて、抵抗なく読んだ。学部一年生に読ませることができる医学論入門の書物として申し分ない。ただ、本書中で連呼される「感染症は実在しない」という言い方は、とてもミスリーディングだし、著者の議論を捉えていない言い方だと思う。

岩田の議論を歴史的に(私なりに)再構成すると、疾病構造の変化と、医療技術の進歩に必然的にともなって、医療の対象となる病気の輪郭が著しく不鮮明になり、合意をとるのが難しくなっている、ということになる。粗くスケッチすると、こんな風になる。かつて、激しい痛みや今にも死にそうな苦しみが、医者を受診することの中心であったときには、そのような病気に対してはある医療を与えることは、ある実在する実体に対して治療をほどこすという普遍的な合意を取り付けることができた。しかし、疾病構造が変化してそのような病気は医療の中心ではなくなり、また、検査技術の進歩などにより、目に見える苦しみがない病気の状態を発見することができるようになった。岩田の言葉を使うと、「あからさまな病気」から「ささやかな病気」への変化である。それにもかかわらず、医療者たちと患者たちが持っている病気の観念は、かつてのこてこてで濃い病気のイメージのままであり、法制度や慣行にも、かつての実体論的な病気のレジームのもとで作られたものが残っている。より「ささやかな」病気に移行したいま、普遍的な実体論の病気観ではなく、より個人的で多義性を許す病気と治療観のパラダイムへと、医療の構造と政策を移行しなければならない。

このシナリオはちょっとだけ有望で成立しそうに見える。「医療の中心」という概念を明確にするのは難しいだろうし、また、こてこての病気が多かったはずの19世紀までの段階で、なぜ実体論的な病気観ではなく、よりあいまいな病気観が幅をきかせていたのかも、説明しなければならないけど。