国民優生法の成立

必要があって、国民優生法の成立過程を詳細にたどった研究を読む。藤野豊『日本ファシズムと優生思想』(京都:かもがわ出版、1998)の第六章である。

著者はハンセン病対策などについて重要な著作を何冊も出版しており、この時期の医学史研究の興隆に大きく貢献した、インパクトを与える仕事をしてきた。ただ、かなり「くせ」がある研究者で、医療政策の歴史研究を通じてファシズム国家を批判することが研究の目標であると宣言していて、主張したいことが先にあって、それにあわせてリサーチをし、その結果をテーゼとの連関性が見えにくい形で提示する研究者でもある。他の研究者はこの著者の仕事に敬意を払いつつ建設的な批判をしているが、かみあわないことが多い。ひとつの理由が、自覚されているテーゼと実際に行われているリサーチ・分析が乖離していることである。この書物でも、<国民優生法の成立における国家と病者・障害者の緊張関係を論じる>といっているが、実際の研究は、6章でいうと、厚生省が作られてからの帝国議会の速記録や研究所などが行った政策の論議の概要を忠実になぞったものである。議論されているのは国家ばかりで、病者・障害者は一人も出てこない。

議論は「ファシズムを総力戦体制一般から区別する要素のひとつに生命・健康の国家管理がある」という前提ではじまる。この前提は、ファシズムに限らず、近代国家や福祉国家の成立を「生命・健康の国家管理」の増大として理解しているオーソドックスな見解とかなりのずれがあり、ぜひ説明がほしいところである。この前提のもと、厚生省の優生法制定までの過程を検討している。1938年に厚生省が作られると、それと同時に、「断種法」制定のための調査研究がはじめられる。学術振興会でもこれと連動した研究班が作られ、三宅鐄一を委員長とする専門の委員会が作られた。これとメンバーがわりと重なる形で、厚生省の予防局は民族優生協議会を発足させて、ここで優生関係の法律を制定するための準備をした。精神疾患を遺伝病とすることについては、科学的な説明は不在であった常識的な合意は文句なく存在した。ここで大きな議論の対象になったのはハンセン病であった。この時点ですでにらい収容院では、合意のもとの手術であるという大義名分を得て、実際には黙認の形で行われていた半ば強制的な断種が行われていた。しかしハンセン病を遺伝病の中に含める荒業はできず、こちらは癩予防法の改正で対処することとなった。三宅は推進派であったが、特に精神衛生学会に集った精神医学者たちの多くは、強制断種には反対であった。(ここには、ドイツの精神医学に対する距離感が表明されている。)

藤野が冒頭で引用している米本昌平の言葉に、戦前のドイツと日本の医療政策の相違点として、日本は他の民族の肉体的な形質に関心を向けなかったことが重要であるという指摘があって、これが本当だったら面白いなと思った。しかし、米本がこれを書いたのは日本の帝国医学の歴史が何も分かっていなかった頃であり、私が断片的に知っている例からも、この指摘のもとになっている現象の把握は正しくないだろう。

批判的なことを多く書いたが、本書が提示しているマテリアルと史実は、この著者のほかの多くの仕事と同じように、貴重なものばかりであることは間違いない。