必要があって、日本の抗生物質の開発の回顧録を読む。 文献は、梅澤濱夫「抗生物質を求めて」(1)-(4)『諸君!』1980年1月号282-299; 2月号294-305; 3月号230-244; 4月号296-310.
日本の抗生物質開発は、昭和19年の2月にスタートして、その10ヶ月後には、森永乳業が実用できるペニシリンを作り、軍に納めることができるようになった。その過程に深くかかわった梅澤濱夫というのちの東大教授が研究の様子を描いている。もちろん偉い先生が優れた業績を上げた自分の人生を誇らしく書いているドキュメントで、キャリアの後半はそうだけれども、研究の出発点だったこのエピソードについては、田舎のどたばた喜劇を思わせる。
まず、日本の科学者たちは、1941年に『ランセット』に出たフローリーたちのペニシリン抽出についての論文を、目にすることができた号であったにもかかわらず、知らなかった。1943年に日本の潜水艦がドイツからもたらした医学週間誌に掲載されていた雑誌に、当時の英米で進んでいる抗生物質のレヴューが掲載されていて、それを翻訳して協力が必要な学者たちと連絡をとるなど、抗生物質の日本での開発がはじまった。その動きが決定的になったのは、1944年1月27日の朝日新聞に、チャーチルがペニシリン剤を命拾いをしたという記事が掲載されて大きな注目を集めてからである。翌日、陸軍から連絡があって、ペニシリン研究会を発足させるように命じられた。それまでビルトアップしていた東大の医学部をはじめ、植物学の教授、農学部の教授でカビの研究者などをあつめて、チャーチルの記事の数日後には正式な研究会が発足した。これを迅速というのか衝動的というのかよくわからない。ただ、後に分かったことによると、チャーチルがペニシリンで治ったという事実は日本だけで流れた誤報であったそうだ。もしかしたら、これは陸軍医学校の諜報作戦かな(笑)